笑芸つれづれ噺


関西の芸能について 日本芸能再発見の会レポート

廓正子さん
 「日本芸能再発見の会」第41回例会(2003年9月28日)は、産経新聞で長く芸能記事を書いてこられた廓正子さんに「関西の芸能について」と題してお話をうかがった。
 現在歌舞伎では中村勘九郎であるという話題から始まった。10年ほど「コクーン歌舞伎」をやってきて、客席と一体化した雰囲気を作ってきた。新劇の演出家と組んで新しい演出も試みてきている。昨年の「平成中村座」でも後ろをあけて走り回るという演出が注目された。ただ、このごろの歌舞伎役者は勘九郎をはじめとして幻想性、神秘性がないのでは、という感想も漏らしておられる。しかし、これを踏まえて大きい役者になってほしいという期待を持ってもおられる。
 続くのは市川染五郎だ。声変わりの頃の演技を見て、この役者は大きくなると確信したという。「劇団新感線」とのジョイントでは、「新感線」の客層が多かったが、「新感線」の役者が染五郎の力で大きくなっていくのを感じ取ったという。廓さんは染五郎は何かをやろうとしていると感じておられる。松竹座での片岡愛之助らとの「敷島物語」にそれを感じた。上方の埋もれた演目の掘り起こしもしている。これは市川猿之助がかつて南座で「小鍛治」をして高く大きく跳び観客がうけた時のことを思い出させる。これで上方歌舞伎がスポーツ紙の記者にも注目される転機となった。そして否応もなく自分の一座で上方の演目を「猿之助歌舞伎」で行い、多くの人たちに歌舞伎が見直されるようになっていった。
 次は市川亀次郎。市川段四郎の一人息子で、子どもの時に宙乗りで猿之助と張り合ったこともある。今年になって猿之助一座を離れ、他流試合も経験している。大樹のそばから離れ古典歌舞伎を身につけて大きくなってほしいという期待感を持っているという。今は女形で力をつけ、いずれは色気のある立ち役をこなしてほしいという。
 文楽では吉田玉女がこれからの文楽を支える芯になると思っているという。吉田玉男ら人間国宝たちのがんばりもすごいことである。太夫では咲太夫が一番熟していて安心して聞いていられる。相生太夫らがいなくなった40〜50代に穴があいているのが気がかりではあるが。若い層が化ける時がくるのを楽しみにしている。文楽の中では三味線が最も若手が多く楽しみがある。ただ、東京のように乗り遅れてはならないと感じる客層が勉強のためにも文楽に足を運ぶが、大阪は自分が楽しみたいという気持ちが強く、地元の芸能を大切にしない、古いものをすぐに捨てる。だから文楽劇場は空席が多い。大阪の人は大阪のものを大切にしないという苦言も呈しておられた。
 歌舞伎に話を戻し、片岡仁左エ門の話題で盛り上がった。孝夫時代から記事を多く書いてアピールしてきただけに、玉三郎との共演などで上方の演目と江戸の演目の両方をできるようになったのが大きくなった理由だと嬉しそうに語る。上方でも江戸でも代表的な二枚目をこなせる役者は細身の粋さをもっている仁左エ門しかいないと強調する。尾上菊五郎は上方ものでも江戸訛りが出てしまう欠点がある。仁左エ門の幸せは市川団十郎らと同世代として売り出されたことにあるという。その上の世代では沢村田之助が不運で、実力はあるのにそのような波に乗ることができなかったのだ。
 玉三郎が市川新之助をもり立てているのも嬉しい。「源氏物語」では瀬戸内寂聴といっしょに御所などに取材に行ったおりに木登りして遊んだりしてまわりを唖然とさせたが、自分がやりたいことを思いのままにやる魅力がある。先代、当代の団十郎の「源氏」を見てきたけれど、新之助はまだ20代なので今後が楽しみである。
 片岡秀太郎はもてはやされた20代、試行錯誤で伸び悩んだ30代を経て、今は吹っ切れた良さがある。その養子の愛之助も何とかしてやりたいと思っている。東京で新之助の「武蔵」に小次郎で出演したが、注目される舞台で大役をすることに意義があったと思う。ただ、役者は役による。中村雁治郎も役によって客を呼び戻すことができるはず。浮気の件など何もかも開けっぴろげになって幻想性が薄れたのが残念だが、坂田藤十郎を襲名してどう変わるかが楽しみだ。上方歌舞伎塾の若者たちには松竹が場を与えて大きく育ててほしいと思っている。今、彼らがいないと舞台が成立しなくなってきているのである。文楽の養成所もあるのだから、若手に役を付けてやって抜擢してほしいところだ。門閥については功罪相半ばという感じだが、子どもの頃から修行した者と大人になって入門した者の差を埋めるのは難しいと思う。ただ、猿之助のように若手を抜擢するのは大きいと思う。中村福助も一時猿之助のもとにいたことがあるわけだし。なんにせよ出し物と役次第。同じ狂言ばかりでなく違うものをかけてほしい。
 落語家の取材では、奥さんを取材して、奥さんの前だからこそ見せる姿を記事にした。いい芸人になるにはいい奥さんが必要だと感じた。自分の夫を鼻にかけて礼儀を知らない奥さんでは、芸人もどこかで止まってしまう。
 取材で最も手応えがあったのが藤山寛美。寛美にあわせて渋谷天外が台本を書いていた時代が一番よかった。寛美の全盛時に天外が倒れ、他の人の台本では手応えがなく、曾我廼家劇へ回帰したところからよくなくなってきた。特に「リクエスト狂言」や「アホ祭り」などの企画に頼るようになり、晩年はどうしたらよいかわからなくなって、廓さんもよく愚痴を聞かされた。説教の多い芝居が増え、やめろと言ったが「今は説教する人がいてないから私がする」とつっぱねられた。あれはやめてほしかった、と廓さんは残念そうな表情を浮かべた。死ぬ7年ほど前、中村勘三郎との共演の話が持ち上がったが「こわい」と言っていたそうだ。今思うと、体をこわしてくたびれていたのかもしれないと廓さんは寂しげに語る。
 寛美が死に、ミヤコ蝶々も死んだ。「一番やりたい相手は寛美やった」と言っていたという。「あれほど手応えのある役者はいてない」と。
 現在気にかかっている役者は、かつて博多淡海が九州から連れてきた狂言方だそうだ。大阪に居着いて蝶々一座に出演していたが、交通事故で亡くなった。身元を証明するものもなく、松竹が葬儀をあげてくれた。本籍が長崎というのはわかったが、原爆で戸籍も不明になりくわしいことがわからない。内縁の妻がいたことはわかったが。むろん紋もわからず、拍子木を組み合わせた紋を使ったという。この無名の役者の生き方を興味を持っているという。いつかこの役者について書かれた本が出ることを、楽しみにしたいものである。

(2004年6月16日記)


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