笑芸つれづれ噺


「もうええわ」はもうええ

 昨年から学校の授業で大阪のことをいろいろと調べて生徒に教えている。上方落語や漫才は、ビデオを使用して古今の芸人の映像を見せている。そんな中で、最近の漫才師の漫才になにかしっくり来ないものを感じたりすることが多いと思いはじめた。
 その感じがなんであるかを教えてくれたのが、正月に私の父がつぶやいた一言である。
「『もうええわ』と言われると、こっちが『もうええ』と言いたくなるな」。
 そうなのだ。最近の漫才師は、漫才のキリのところで必ずといっていいほど「もうええわ」という言葉を使うのである。落語でいえばサゲの部分だ。それを判で押したように「もうええわ」で終らせてしまうのだ。
 そこで、ダイラケの漫才はどういうキリの言葉を使っているか確認してみた。必ずといっていいほど「そんなあほな」で終っている。ダイマルのボケにラケットがつっこんだら、さらにダイマルが大きくボケを返してくる。そこであきれたように「そんなあほな」といって終るのだ。このぼやきともなんともつかぬ「そんなあほな」に込められたニュアンスの豊かさは、「もうええわ」と突き放して終ってしまう現在の若手漫才師にはないものだ。
 やすしきよしはどうか。こちらは多くはきよしが「やめさせてもらうわ」とあきれて自ら引っ込むパターンが多く見られる。やすしのボケがどんどんエスカレートしていくのでアホらしくなったというニュアンスである。「もうええわ」で切る場合もあることはあるが、判で押したというほどではない。
 決まり文句で切る漫才師もけっこう多かった。
 例えば平和ラッパ・日佐丸はアホのラッパにあきれた日佐丸が観客に向かって「こんなん連れてやってまんねん」とぼやくとラッパが「気ィつかいまっしぇー」と逆襲し、日佐丸が「それは僕のセリフや」と切り返すと「ハハハッ」と笑って二人そろって「しゃいならー」と頭を下げて引っ込む。
 例えば人生幸朗・生恵幸子なら、幸子の「このドロガメ!」という言葉を合図に「責任者出てこい!」という決まり文句を発し、最後は演説調で「皆様の御健康と御多幸をお祈りいたしまして、ぼやき高座予定終了でございます」と言って下がる。
 例えば西川のりお・上方よしおなら、狂気にも似たのりおのエスカレートするギャグの連発があり、それが一通り終ったところでよしおがおもむろに「さようなら」と言って下がる。
 音楽トリオならばそれぞれのテーマソングにのって別れを告げる。
 要は、それだけ漫才師によるバリエーションがあったということなのだ。
 ところが、現在はほとんどの若手漫才師が「もうええわ」と、相手を突き放して話をやめさせてしまう。そこまで盛り上がってきた笑いがそこで切断される、いわばサドンデス状態になるように感じるのだ。間も余韻もあったものではない。
 これは、師匠について勉強するという師弟関係がなくなって、養成所出身の「ノーブランド漫才」が増えたからなのだろうか。師匠が細かく指摘して、弟子がそれを直すというシステムはたぶん働かないだろう。若手たちは同じ世代の漫才師が出る小屋でお互いの漫才だけを見て勉強する。そこでは「もうええわ」と切るのがルールであるかのようになってしまう。こういう推理はうがち過ぎだろうか。
 私は「そんなあほな」で切る漫才が好きだ。相方のボケを突き放すこともなく、しかしあきれてその先が続けられないという合図になり、観客も同じように「そんなあほな」とあきれつつ笑う。そこにはなんともいえない空気がただよっている。
 せっかくすばらしいニュアンスの切り方があるのだから、どうせならそっちを使ってほしいものだ。「もうええわ」はもうええのである。

(2004年9月10日記)


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