白鵬が引退した。晩年には見ていられない相撲をとったりもしたが、相撲史に残る大横綱だった。
番付運がよかった。本来なら十両に上がれる成績ではなかったが、関取の数を増やした時にタイミング良く勝ち越しており、幸運にも関取になることができた。まだ一部屋の外国人力士制限がなかった時期の入門だったので、部屋にモンゴル力士の龍皇がいたため、日本になじむのも比較的早かったことだろう。そして、その運を生かすだけの努力をした。特に過去の大横綱や名力士のビデオを何度も繰り返し見て、相撲を学んだことは大きかったことだろう。
大関昇進後、横綱は朝青龍一人。朝青龍は自由奔放な半面、トラブルも多かったが、それを見て逆の行動……大鵬親方に教えを乞うたり、双葉山を目標に「後の先」の立ち合いを目指したり……をとり、朝青龍とは対照的な「優等生」になろうとした。いや、なった。
東日本大震災の時は、被災地に駆けつけ、祭事として横綱土俵入りを行い被災者を元気づけた。野球賭博で琴光喜や大嶽親方が角界を去った時、協会の判断で天皇賜杯の授与をなくした時の悔しがり方は、日本人力士以上のものがあった。
朝青龍が不祥事で引退したあとは、日馬富士らが台頭するまでは一人横綱として土俵を支えた。特に八百長事件で場所が中止になったり、技量審査場所になったりした時、彼がいたことで相撲界は守られたと言っていい。そして63連勝。後のカウンター張り手やエルボースマッシュなどは一切使わず、完成された相撲で双葉山の記録に迫った。稀勢の里に土をつけられて連勝が止まった時、「これが負けか」とコメントした時が絶頂期ではなかったか。
大鵬親方の死は、大きかった。師匠の宮城野親方は現役時代、平幕下位の力士で、横綱にアドバイスもできなければ諫言もできない。しかし、大鵬親方にはそれができた。大鵬親方が亡くなったころ、白鵬も少しずつ衰えてきた。しかし、横綱たるもの土俵に上がれば最強でなくてはならない、勝たなければならない。勝つことが自分が横綱であり続けることの意味であるというようになっていった。白星への執着は前述のカウンター張り手や「かちあげ」と称したエルボースマッシュの常態化という形で現れた。
また、横綱は神であり、何事も許されると勘違いし始めたふしもある。明らかに立ち合いに手をついて相撲が成立していたのに、負けたら「誰か物言いをつけてくれよ」とばかりに土俵下に降りたままあがらなかったことや、優勝インタビューで会場全体に三本締めや万歳三唱を要求したこともあった。オリンピックで土俵入りがしたいと現役を引きのばしにするためか休場が増えた。
体も限界に来ていたに違いない。横綱土俵入りでは腕が曲がったままのばせない形でちりを切っていたが、今思うと、あれ以上ひじが伸びなかったのではないか。
最後の全勝優勝を果たした名古屋場所、白鵬はそのまま引退するつもりだったという。私もそうするのではないかと、照ノ富士を下した後にこれまで封印していたガッツポーズを繰り返したのは、引退の花道を全勝で飾れたからだったのではないか。
しかし、協会は全勝優勝の横綱がすぐに引退することを許さず、翌場所は全休、そして番付編成会議後の引退発表とつながっていく。白鵬の思いと協会の考え方は常に食い違うようになっていった。
晩年のの見苦しさは、裏を返せば八角理事長がちゃんと直接話をして諭せばよかったことだ。しかし理事長にはそれができなかった。できるのは故人となった大鵬親方だけだったろう。大鵬親方の苦言ならば、白鵬も素直に耳を傾けていたのではないだろうか。
もう白鵬は土俵に上がらない。大関陣がもたもたしていても、白鵬が土俵に上げった場所はそれだけで締まったものになった。今後、その役割を照ノ富士が担うことになる。
幸運と技量と努力の人、白鵬になかった運は、両立すべきライバルが不在だったことだ。そうあるべきだった力士は、朝青龍と日馬富士は不祥事で角界を去り、稀勢の里は新横綱の場所に致命的な怪我を負い、ライバル足りえず終わってしまった。
白鵬は最高で、孤高の横綱だった。
今後は間垣親方として後進の育成にあたる。もし今後、孤高の横綱になりそうな力士が出てきたら、かつての大鵬親方のようにその力士の相談役をしてほしい。白鵬にしか見えない景色が、きっとあったに違いないのだから。
今場所も照ノ富士が優勝候補の筆頭に上がる。正代は白鵬の引退で大関としての責任感を口にするようになった。その気持ちがどれだけ土俵で発揮でるか注目したい。
先場所は新型コロナウィルス感染症のため休場を余儀なくされた新十両の北青鵬がどんな相撲をとるのかも楽しみである。
(2021年11月13日記)