宮本武蔵は細川家人長岡佐渡らに請われて、船島で佐々木巌流斎と決闘。一撃のもとに倒す。巌流斎の妻で服部半蔵の長女と名乗るふさ、そして次女のしのが率いる伊賀忍軍が、巌流斎の仇を討つため武蔵を付けねらう。逃亡する中で、武蔵は自分が決闘した巌流斎が実は伊賀忍者が扮した偽物で、本物の巌流斎は越前松平家の家中に生存していることを知る。巌流斎を倒した男と評判になっていても、それが偽物では兵法者として気持ちがおさまらない。武蔵は大坂城攻めの軍にいるであろう本物の巌流斎を探し求める。しかし、伊賀の間者を倒したことで裏の世界では大坂方の隠密と思いこまれた武蔵は、江戸方の刺客にもつけねらわれることになる。剣の道を求めるだけの武蔵であったが、押し寄せる時代の波にはあらがうことができない。ふさ、そしてしのたちの追撃をかわしながら探し求めた巌流斎の真の姿とは……。
「秘伝・宮本武蔵」やいくつかの短編で宮本武蔵を描き続けてきた作者が、晩年に残した最後の武蔵像である。ここでも光瀬版武蔵は政治の動きに翻弄される無垢な男として描かれる。ただ、伝奇色が強い他の作品とは違い、本書では裏の世界の描写は抑えられていて、宮本武蔵の生き方そのものにスポットが当てられている。「秘伝・宮本武蔵」でもそうであったが、作者の描く宮本武蔵は敗北感にさいなまれる存在である。例えば夢想権之助に敗れ呆けてしまったり、本物の佐々木巌流斎と出会って泣きそうになりながら決闘を申し出る姿など、他の作家の描く武蔵とは完全に違っている。
なぜ作者はこうまでして”弱い宮本武蔵”を書き続けたのだろうか。私には、作者が「求道者」の嘘臭さから武蔵を解放したいという気持ちが作者にあったのではないかと思われてならない。茫漠たる宇宙の中でのちっぽけな人間が「剣禅一如」などと悟ったようなことをいうことに対して何か虚しさを感じていたのではなかろうか。
昔から「SFは人間を描けていない」と言われたりするが、本書を読んでいると時代小説の方が実在の人物の類型的なイメージにとらわれ過ぎて人間そのものを描けない場合もあるというように感じられる。本書はSFではないが、SF作家でなければ描けない「人間」を描いた時代小説といえるのではないだろうか。
(2003年2月28日読了)