「名人とは何か」に続く第3巻。
落語はどこで行われているのか。その歴史と現在を探る一冊。
CDで落語を出し続ける京須偕光、そのジャケット写真などで落語家の姿を記録にとどめた篠山紀信、テレビで落語番組を作った横澤彪らによる座談会。メディア史研究の川添裕は寄席からレコードへと広がっていった落語を伝えるメディアを考察する。日本語史研究の清水康行は明治に流行した落語の速記本について解説する。大衆芸能研究の岡田則夫は落語レコードの歴史について記す。演芸プロデューサーの熊谷富夫は上方落語を中心とした放送と落語の歴史を追うとともに落語の高座の撮影の仕方についても言及する。近世芸能史研究の中川桂は大阪における寄席の歴史と現状を説明。落語会世話人の伊藤明は地域寄席の運営についてその実践をもとにノウハウを披露する。評論家の矢野誠一による「落語評論」論は評論という行為そのものの根幹に迫る内容のもの。大正時代の寄席事務方、瀧野寿吉が当時発表した寄席の出番を決める手順などについての貴重な記録が再録されている。「寄席を知らない落語家」立川志の輔へのインタビューは寄席に頼りがちな東京の落語家に対する問題提起となっている。川添裕と大友浩の対談では落語論の広がりと将来への展望が語られ、最後に置かれた東京の4つの寄席の席亭による座談会は現在の寄席が置かれている状況を浮き彫りにしている。
観客がいなければ落語をする意味はない。そして、よい観客を育てなければ芸の進歩はない。さらには、まず客を落語をしている場所に引っぱりこまなければならない。
演者と聞き手。興行と称するものにとっては永遠の課題であろう。それをあらゆる角度から見つめ直した本書は、優れたメディア論でもある。観客の立場の者、そして送り手、それぞれの側から見せること、見ることが語られる。本書は、だから落語というものの本質的な課題を読み手に、あるいは書き手に突きつけているといえるだろう。
むろんこれは作家と読者、そして評論家にも当てはめることはできるだろう。そういう意味ではいろいろと考えさせられる一冊であった。
(2003年8月31日読了)