「封印歌謡大全」に続くシリーズ第2巻。
前巻で紹介した「封印歌謡」の送り手に直接取材し、歌が「封印」されることについて歌を送りだした側の率直な感想と、歌を作り出すという行為についてどのような考えを持っているのかなどを前巻よりも深く追求したもの。
ファーストアルバムからサードアルバムまで連続で回収処分を受けた頭脳警察のPANTA、下ネタにこだわり続け駄洒落と「ぎ、なた言葉」という伝統的な言葉遊びを駆使するつボイノリオ、殺人を犯したために全ての曲を「封印」されてしまった克美しげる、送りだした企画が諸般の事情で回収処分となること3度というレコードプロデューサーの高島弘之。
「封印」を確信しつつ歌を生み出した前者2名と、自分の意図に反するように時代に流されてしまった後者2名。どちらにも共通するのは、時代ごとに変わるものの見方考え方、あるいはモラルやルールに左右された人々であるということである。
著者の「歌は誰のものですか」という問いに、ある者は「聴く人のもの」と答え、ある人は「自分のもの」と答える。それはどちらも正解なのだろう。いや、正解などというものはないのかもしれない。本書に引用された歌詞を読んだり、彼らの考え方に触れることにより、ここで「封印」された歌には、あるいは歌手の生き方には、あたりさわりのないものや耳障りのよいものがないことに気づかされる。
ひるがえって、現在のJポップの歌詞を読んだり歌を聴いたりしてみる。そこには「封印」されるほどのエネルギーも挑戦する心も人を殺してまで守ろうとした「スター意識」も感じられない。果たして「封印」されることは本当に不名誉なことなのか。歌によっては、それは勲章になり得るものなのかもしれない。
本書には、CDが付録としてついている。原盤使用をレコード会社から断わられた著者が、70歳になった克美しげるに新たに録音してもらった「さすらい」「おもいやり」「エイトマン」が収録されている。カバーバージョンでなく、本人の歌唱で蘇ったのである。克美しげるの犯罪と切り離して「歌」そのものの価値を問いかけたいという著者の執念がそこからは伝わってくるのである。
(2007年12月17日読了)