ぼやき日記


2月11日(金)

 私は世事に疎くて「伊勢海老キャッチャー」なるものがこの世に存在してるということも知らんかった。なんでもクレーンゲームの景品に伊勢海老を使うているという。300円で伊勢エビが釣れるんやからこらうまいこといったらボロいゲームですな。ところがこれ、動物保護団体から虐待やとクレームがついてるらしい。
 ゲームを開発した会社は「食材」やとつっぱねてるそうで、法律上も甲殻類は虐待の対象にはならんそうです。虐待か虐待でないかは私には判断がつかん。なにしろその「伊勢海老キャッチャー」を実際に見てないんやからね。ただ、伊勢エビキャッチャーが虐待にあたるんやったら、「金魚すくい」はどないなるねん、とか思う。あれこそ虐待の最たるもんやないかと。「ひよこ釣り」というのもあったな。あれもええかげん虐待でっせ。動物保護団体が「金魚すくい」や「ひよこ釣り」に対してどのような見解を発表しているか知りたいところやね。もしかしたら「全国香具師協同組合」に対してすでに抗議しているのかもしれん。「全国香具師協同組合」なる団体があるかどうか知らんけれど。
 動物保護団体は他にもあるペットショップに対して「ペットを福引きの景品として出すのはけしからん」という抗議をしているそうな。景品があかんかって売買はええというのは私にはわからん感情ですな。同じことやないかという気がするけど。
 これやったら、昔ドリフターズが「8時だよ全員集合」で卵をぶつけ合ったりしてたときに消費者団体が「食品を粗末にするのはいけない」と抗議してたほうが、まだ私には感情としては理解できるな。
 いつも思うんやけど、動物保護団体の抗議というのは時々理解に苦しむことがあるな。これならええ、あれならあかんという基準が判然としない。なにかこうメディアに採り上げられることが目的であるように思えることがあるというのは、穿ちすぎでしょうか。
 ところで、「伊勢海老キャッチャー」で釣った海老はどうやって持って帰るんやろうか。また、普通の家庭でどないしてさばくんやろうか。やっぱり烏帽子かなんかかぶって錐みたいなもので甲羅の間からぶすりとやったりしてはるんでしょうか。なにしろ実物を見たことがないもんで、全くわからん。見たこともないものについて書くかね、普通。

2月12日(土)

 今朝の「日刊スポーツ」によると「重大事件の注目人物すべて昭和37年生まれ」なんやそうです。新潟の女性監禁男、オウム真理教(現アレフ)の上祐史浩幹部、連続幼女殺害事件の宮崎勤被告が例としてあげられてて、和歌山毒物カレー事件の林真須美被告は38歳やのにむりやりその仲間に入れられてる。
 精神科のお医者さん、心理学者のコメントも合わせて載せてるけれど、たった3例だけで「すべて」というのには無理があると思うぞ。「おかあちゃん、ええやん。クラスのみんなが持ってるねん。買うてええやろ」「みんなて、何人?」「……3人」というのと同じやね。違うか。
 そやけど、うなずけんこともない。私も昭和37年生まれの37歳やけれど、ちょうど高度成長期のただ中に生まれ、両親が共働きのために「鍵っ子」として育ち、テレビを友とし、中学時代は「校内暴力」の中で教師を軽視するような環境にあり、「ノストラダムスの大予言」を始めとする終末論がささやかれる中で厭世的になり、20歳前後には「新人類」と呼ばれて社会的にも何を考えているのかわからない世代と決めつけられ、バブル直前の低成長期に社会人になったためろくな就職口にもありつけず、バブルの真っ最中に仕事を覚えたためにまともな仕事ができなくなり、バブル崩壊後は自分のポジションが見えないままリストラの対象になる、そういう世代やからね。社会的ルールや道徳は民主教育の爛熟期やったから学校でもまともにそういうものを教育されてへん。そら犯罪を起こす要因の多い世代といえるわなあ。
 と、いうのは、全部でたらめ。あのね、こういうのをこじつけというの。「団塊世代」「シラケ世代」「バブル世代」とおんなじ。もっともらしいことを並べ立てたらなんかそれらしくなるでしょう。
 昭和37年生まれの37歳はことSF業界に関していえば犯罪者どころか多士済々。思いついただけ敬称略で並べてみても、山岸真、三村美衣、小浜徹也、冬樹蛉、田中啓文、小林泰三、朱鷺田祐介、林譲治、藤崎慎吾、おがわさとし、ついでながら喜多哲士……。まだいると思うけれど、これだけ並べてみても壮観やないですか。最後の一人はたいしたことないですか。枯れ木も山のにぎわいで寄せといてえな。
 たった3人の例でまるで同い年の人間全員を異常者の集団みたいに書かんといてほしいね。この記事を読んで私は笑いましたよ。したり顔でコメントを寄せている堤邦彦、作田明、安本美典の各氏はSF界でこれだけ昭和37年生まれが活躍しているのをどう解釈するのか、聞いてみたい。きっと全然正反対のコメントを寄せるに違いない。
 ついでにいうと、毎年「今年の新入社員は『テレビゲーム型』」みたいに名付けて喜んでいるなんとかいうおっさんがおるでしょう。レッテルを貼らんと気がすまんと見えるけれど、自分たちの世代にはどういうレッテルを貼るのかね。
 こういう記事を書く記者は「アホ」と一言ですましときたいところやけれど、それを読んで馬鹿正直に信じる人もいてるんやろうなあ。迷惑千万やね。

2月13日(日)

 ライヴ録音のCDを立て続けに聴く。ウィーン・フィルハーモニーの「ニューイヤー・コンサート2000」に桂吉朝の落語の新譜。で、ふと感じたことがある。なにかというと「拍手」なんやね。ウィーンのホールでも、日本のホールでも、観客は同じように拍手をしてる。この拍手をするという習慣の起源はいったい西洋のもんなんか東洋のもんなんか。
 落語の場合は、出囃子にのって落語家が高座に出てくるその時とサゲをいうて頭を下げるときに拍手が来る。オーケストラの場合は、舞台の袖から指揮者やソリストが出てきたときと演奏が終わったその瞬間に拍手がまき起こる。ここらあたりはいつ拍手をしていいかはっきりしてる。歌舞伎やと幕が開くときと花形役者が舞台に出てくるたびに拍手が入る。
 ところが、能や狂言になると、拍手のしどころがないのやね。橋懸りから役者がしずしずと入場するけど、この時はまだ始まってないから拍手はでけへん。舞台の中央に立って全員揃うたらおもむろに台詞を言い始める。ここで拍手はしにくい。演技が終わった時点でも拍手しにくいし、役者がしずしずと戻っていくときも拍手しにくい。
 もしかしたら、400年ほど前の日本やと能や狂言に拍手する習慣がなかったんと違うか、という気がする。幕がある場合は、拍手のしようもある。ところが能舞台は拍手しにくい構造になってるんやね。
 大河ドラマで平安末期から鎌倉初期を描いたものなんかやと白拍子に拍手したりする場面があるけど、あれ、ほんまに拍手してたんやろか。いい場面で思わず手を打つというということはあったかもしれへん。これはもう自然に体が動いて自分の感動を表現するという動作の一つではあるからね。そやけど、一斉に拍手するというのはちょっと違うように思うんやけれどね。
 なにか拍手の歴史について書かれた文献はないものか。無精なもので私は漢和辞典くらいしかよう調べられへん。「拍手」には神様の前で手を打つ「かしわで」の意味もあるらしい。それが拍手の習慣に結びついた……というのはこじつけになるなあ。
 どっちにしても、ヨーロッパの観衆も日本の観衆も同じように拍手をする。これは実に不思議なことやと思いませんか。不思議やと思う私が変なんかなあ。なにをどう調べたらわかるんか。その手がかりすらないぞ。うーむ、気になる。

2月14日(月)

 チャールズ・M・シュルツの訃報に接する。シュルツというたら「スヌーピー」。だいたいは「ピーナッツ」というカートゥンのキャラクターの一人(?)に過ぎなかったのが、キャラクター単独でも人気になったわけですな。
 私は小学生のときに今はもう倒産した鶴書房から出てたコミック本で初めて接した。NHKで放送されてたアニメーションよりも漫画本体の方が先という、なかなかまっとうなファースト・コンタクトやないですか。もっとも、子どもにはあのシニカルで哲学的な台詞は全然理解でけへんかったけどね。そう、あの四コマ漫画はかなり難しい内容でありますよ。なんか最近は「講談社+α文庫」あたりでまるで癒し系漫画というような扱いを受けてるけれど、かなり毒のきつい漫画やと思うんですけどね。落ち込んでるときに読んだらますます鬱になりそうな。新聞記事でも「心あたたまる」というような形容詞をつけていたけれど、ちゃんと漫画を読んで記事を書いておるのか。
 4コマ目に必ず署名が入ってるのがかっこよかったなあ。ところで、私は長いこと疑問に思うてたんですけど、日本の企業のポスターやお年玉のポチ袋に「ピーナッツ」のキャラクターが和装してる絵が使われたりしてたでしょう。あれにも必ず漫画と同じ署名が入ってたんやけれど、あれ、シュルツ本人が描いてたんやろうか。タッチなんかはオリジナルの「ピーナッツ」そのままやったから本人が描いてたのかなあと思うけど、いくら請負仕事とはいえ、(たぶん資料を送ってもろうて見たんやろうけど)わざわざ紋付きのチャーリー・ブラウンや振り袖のルーシーを描いてたのか。四コマ漫画で、しかもああいう内容のものを新聞連載するというのはかなり神経をすり減らすことやったやろうに、そういう請負仕事も自分でやってたとしたら、シュルツの寿命を縮めるのに日本の企業が荷担してたみたいな気になるぞ。
 王国を築き上げたディズニーとは違うて、一人の漫画家として寿命をまっとうしたというとこらあたり、私としては好感を持ってるんやけどね。
 謹んで哀悼の意を表します。

2月15日(火)

 先週に引き続き、関西一帯に寒波が襲来。先週も火曜の晩から水曜の朝にかけて寒波が来ましたな。えらい律儀な寒波やね。きっと待ち合わせに遅れて女の子にふられたとか、そういう過去があるに違いない。どんな寒波や。

 TVで噂の「ジャケットプレイ」なるものをようやく見る。郷ひろみが上着を肩から落とすように脱ぐ振り付けでありますね。えらいカッコつけてるけど、あんなもん桂春團治師匠の真似やないか。
 春團治師匠が出囃子の「野崎」にのってすっと高座に上がり、「ようこそのお運び、厚く御礼をば申し上げます。私の方は相変わりませぬ馬鹿馬鹿しいお噂をば聞いていただきまして、失礼をさせていただきます」と早口で言うてから枕をふる。いよいよ落語の本題にはいると、両手で羽織の袖を軽く引っぱり、すとんと落とすように脱ぐ。あれが粋でね。あれを真似したい若手の落語家が何人挫折しているかというくらい。あれは他の人にはでけへんのです。なんでも師匠はかなりのなで肩なんであれが可能やそうですが、もともとの着こなしがええからそれが様になるんやね。
 郷ひろみ流にいうと「羽織プレイ」とでもいうんかな。むろん師匠はそんな野暮な名前はつけません。「あんなん別にたいしたことおまへん」とにこりともせずに言うてはるのを以前TVで見た。かっこいいというのはああいうのをいうんであって、わざわざ名前をつけてこれ見よがしにやるというのは野暮の骨頂。あれを自分ではかっこいいと思うてるのが恥ずかしい。
 え、あれはなにも春團治師匠の真似やないんですか。とすると、郷ひろみは上には上があることも知らんとあれをやってるんかいな。ものを知らんということの哀しさをこれほど感じることはないね。郷ひろみはいっぺん春團治師匠の独演会に行ってみたらええと思うね。師匠の粋な姿を見たら恥ずかしさを感じて二度と「ジャケットプレイ」てな真似はでけへんようになると思うぞ。あ、それでもああいう人は自分の方がかっこいいと思いこんでるやろうから、なんにも思わんか。
 春團治師匠の落語を見る機会の少ない地方の方は、NHK教育TVで土曜の昼にやってる「日本の話芸」という番組をチェックしてみて下さい。「桂春團治」という名前をTV欄で発見したら、録画してでも見ることをお薦めするぞ。粋という言葉はこういう人のためにある言葉やとつくづく思う。

2月16日(水)

 寒い。昼間、日が照っていても気温がいっこうに上がらんというのはどういうことや。

 朝、生徒といっしょに運動場を走ったりするけれど、毎日同じ曲がBGMとしてかかっている。いいかげん聞き飽きた。今では嫌いになってしもうた。もう聞きたないぞ「Loveマシーン」と「ゴールドフィンガー99」。あ、こういうことを書いててええんかな。実は同じ職場の人もこの日記を読んではったりするらしい。まあ、これは個人の嗜好の問題ということで堪忍してもらお。そろそろ曲を変えてくれへんかな。
 私としてはモーツァルトの交響曲第41番”ジュピター”第4楽章やとかベートーヴェンの交響曲第7番の第4楽章あたりをかけていただきたい。実に気持ちよく走れると思う。ああ、これは趣味の問題やから、こればっかり毎日かけへんでもかまいませんが。
 そういえば、プロ野球阪神タイガースのキャンプでは去年からクラシックをBGMに使うていたのが選手には不評で、とうとう最近はやってる曲に変えたらしい。選手はこれならOKと喜んでるとかいう。なんでクラシックをBGMにしていたかというと、野村監督がどこで聞きかじってきたか「モーツァルトを聴くと脳波のα波が多くなってよい」という風説を丸飲みにしてたんやそうですな。別に野村さんがクラシックが好きやとかいうことではないらしい。選曲は球団職員がやったそうで、いったいモーツァルトのどの曲をかけてたんや。まさか「レクイエム」やとか「フリーメーソンのための葬送音楽」なんかと違うやろうな。いくらなんでもそれはないか。やはりここは野村さん自身がモーツァルトを聴きこんでこれはと思う曲を自分で選ばんとあかんと思うぞ。あ、OBの江本孟紀さんは現役時代から「好きな音楽はバロック」と公言していたほどのクラシックファンやから、江本さんに選曲してもろうたらよかったのに。
 曲にもよると思うけれど、私が「Loveマシーン」や「ゴールドフィンガー99」を聞いてランニングするのがかなんのと同じように、タイガースの選手もモーツァルトばっかり毎日聞かされて飽きてしもうたのかもしれへんな。BGMというのの選曲は難しい。百貨店でバイトをしていたときに、クリスマスソングを一日中聞かされてストレスがたまったのを思い出す。ふだんはバラエティに富んでるBGMやのに季節ものとなるとしつこく同じものをかけるからね。私は「ルロイ・アンダーソン名曲集」のCDを聴いてて「そりすべり」がかかると百貨店の風景が目に浮かぶんや、今でも。
 BGMというのはほんまに選曲が難しいと、毎日実感する今日この頃であります。

2月17日(木)

 「仮面ライダーチップス」を買うたらラッキーカードが当たった。これで3枚目。箱ごと買うたけどラッキーカードが1枚も当たらなんだとぼやいていた同僚に見せびらかしたりしていた。ええ年をしたおっさんがなにをしているやら。
 まあ私はトレーディングカードに関してはコレクターというわけやない。中にはコンプリートやないと気がすまんという人もいるかとは思うけど、私はちょびちょび買うて楽しむ程度やね。それでも同じカードがあまりにも立て続けに出るのはかなわんなあ。「墓場の怪人カビビンガ」のカードばっかり3枚もあったってなあ。
 いろいろと事情があって生徒の持ってきていた「遊戯王」のカードを預かっている。最近のゲーム関係にうとい私は「遊戯王」についてもほとんど知らなんだんやけれど、今回初めてじっくりとカードを見ることができた。いかにもダーク・ファンタジーという感じの怪物ばっかりで、ちょっとグロなところは私の好みやない。怪物の特徴やなんかは「ポケットモンスター」あたりとたいして変わらんように思うんやけれど、絵柄が違うと印象もかなり違ってくるもんですなあ。「ポケモン」はマンガマンガしてるんで、親しみやすいところがあるね。
 10年ほど前にはやった「ビックリマンシール」は間抜けな怪物ばっかりでなんか楽しかったような記憶がある。あのブームの頃、私は塾に勤めてて小学生相手に勉強を教えてたんやけれど、子どもたちに受けている理由を知りたいとちょくちょく買うてた。だんだん楽しくなって、けっこうな枚数になった。真似して出てた他の会社の「ビックリマン」もどきのシールも比較検討するために買うたりした。コレクターやないはずやのに、なんか買うてしまうんですな。あれは確か三村美衣さんに見せたら欲しがったので全部あげたはず。10年も前のことやから、彼女は憶えてへんかもしれへんけどね。
 「遊戯王」のカードはなんか限定発売のもんやとかプレミアのつくようにできてるみたいなんで集めてる子どもの中にはかなり過熱してる者もいるようやね。そこまでいれこみたくなるほどのデザインかなあという気もするけれど、ゲームや漫画とタイアップしてるから、そこらあたりが過熱の原因なんかね。
 「仮面ライダーカード」が復刻されて、かつて揃えられへんかった思い出のあるおっさんたちが嬉々として買うてたりするわけやけれど、あと10年ほどしたら「ビックリマンチョコ」もシールもそのままで復刻されたりして、新たなおっさんたちのノスタルジアをかきたてるというようなことになるかもしれへんなあ。いや、ロッテはもう今からその準備を始めてるかもわからんぞ。

2月18日(金)

 無知ということは恥ずかしいことで、昨日「あと10年ほどしたら「ビックリマンチョコ」もシールもそのままで復刻されたりして」やの「ロッテはもう今からその準備を始めてるかも」てなことを書いたら、今朝「ビックリマンチョコ2000」なる菓子をコンビニエンス・ストアで見つけた。もうとっくに始めてたんですな。シールは新作かもしらへんけれど。
 で、ついそれを買うてしもうたかというと、そうやない。他の菓子を買うたので「ビックリマンチョコ」は買うてないんだ。
 何を買うたかというと、「変身ヒーロースナック」。これは「超人バロム1」「人造人間キカイダー」「キカイダー01」「ロボット刑事」「イナズマン」「イナズマンF」「コンドールマン」「秘密戦隊ゴレンジャー」「ザ・カゲスター」「快傑ズバット」のいずれかのカードが、なんと一袋に2枚ついているというスナック菓子。ラインナップを見るとどう考えてもおっさん向け商品であるな。今どきの子どもが「超人バロム1」のカードなんか欲しがるとは思われへんぞ。いやあ、二匹目のドジョウを狙うてカルビーも調子に乗るなあと手にとったら、違いました。江崎グリコの新製品でした。グリコがスナック菓子を発売するというのは非常に珍しいな。
 しかしこのラインナップ、オタク心をくすぐるやないですか。メジャー過ぎずマイナー過ぎずという線をみごとにとらえてる。しかしどれほど売れるものかね。「仮面ライダーチップス」と違うてかつてあったものの復刻やないからね。ついつい買うてしもうた私がいうのもなんなんですが。
 どんなカードが入ってたか、ですか。「ハカイダー」と「超人バロム1とアントマン」が当たったぞ。私、ハカイダーのファンでしたから、なんか嬉しかった。
 しかし、「仮面ライダーカード」みたいな復刻ものあり、「ビックリマンチョコ2000」みたいな過去の人気商品の新作あり、「変身ヒーロースナック」みたいな懐かし路線新作ありと駄菓子もあの手この手でおまけを考えるもんですなあ。
 ところで、カード2枚というところが「おまけ」のグリコらしいいかにも大阪の会社という感じのつけ方やないですか。買うてからいうのもなんやけど、ほんまにこれ、売れるんかな。すぐになくなるといかんから、ちょいちょい買うことにしよう。ええ年して何をしていることやら。

 明日は所用で遅くなるので日記はお休み。次回更新は日曜の深夜の予定です。
 また、日曜日は
「たちよみの会」例会です。ご参加お待ちしています。

2月20日(日)

 19日の夜、13人の男たちが梅田のさるビアホールに集まった。13人という人数に何か邪悪なものを感じた方もいてはるやろう。その13人の顔触れとは……。
 
堀晃、牧野修、野尻抱介、おがわさとし、喜多哲士北野勇作小林泰三田中啓文林譲治冬樹蛉田中哲弥、堺三保、都築由浩(順不同、敬称略)。
 驚くべき事実がある。なんとこの宴会は2月も下旬にさしかかろうというのに「新年会」やったのである。そして、うち7人はあの現在世間を騒がしている昭和37年生まれ……半数を超える。この新年会で何が語られたかは、書くまい。私が撮影したデジカメの画像を見ると、誰もが嬉しそうに笑うている。
 なぜか。
 楽しかったんである。めちゃめちゃ楽しかったんである。これだけのメンバーがいたら、小さなコンベンションが開けるね。ここで爆弾でも落とされたらSF界が大打撃を受けるね。
 二次会では、すっかりできあがった私が家に電話をかけ、その場に残っていた人たちにむりやり携帯電話を渡し、妻と話をさせるという醜態を演じてしもうた。ああ恥ずかしい。田中哲弥さんやったか「奥さんは魔女。ベランダから外をのぞいたら事故が起きるんや」と喧伝してた。なんでそんなことを知っている。筒井康隆さんがいかに偉大かと熱く語る作家たちの真剣な表情。
 二次会が終わったころには、とっくに終電はなくなり、家に帰ることを断念した冬樹さん、田中哲弥さん、そして私の3人はカラオケボックスで夜明かし。一切歌など歌うこともなく、「『ブラックジャック』で『この自然の美しさがわからない奴は、死ね!』という台詞がかっこよかった、あのレベルのもんをを毎週描いていたなんて信じられへん」と手塚治虫の偉大さを熱く語ったりした。
 もうほんまに楽しかったんやけど、徹夜はちょっときつかった。始発電車で帰路についたけど、外はまだ暗い。感覚としては終電に乗ってる感じやったね。
 帰ってしばらく仮眠、出かける支度をして「たちよみの会」の例会のために京都に行く。
 今月は私と妻、会員Y氏、かつきよしひろさん京大SF研から細井威男さん岡田英之さん、加藤会長、初登場のしおしお嬢が参加。しおしお嬢を中心になごやかに過ごす。妻など若い女の子がいるというだけで、家ではついぞ見せたことのないような嬉しそうな笑顔を見せてくれるやないですか。ほんまにもう。
 いやいやこの2日間は体の疲れなんかをとることはでけへんかったけど、ほんまに楽しかったし、リフレッシュできた。
 それにしても、19日の「新年会」が”日本SFの現在”を端的に示してるとすれば、20日の「たちよみの会」はさしずめ”日本SFの未来”ということになるやろうね。2日間で現在と未来を味わうことがでけたんやから、有意義この上なかったね。
 これで月曜日も仕事が休みやったらいうことないんやけれど。遊び倒しといて何を言うておるのだ。われながらあつかましいな。


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