ぼやき日記


2月21日(月)

 土曜日、電車で座っていると、私のちょうど真向かいに二人連れの中学生の少年たちが座っていた。なんで連れとわかったかというとやね、時々片方が話しかけたりした上に同じ駅で降りたから。
 二人とも黙々と小説を読んでいる。ところで、人が本を読んでると、何を読んでるのか気になりませんか。隣に座ってる人が本を読んでて、本屋のカバーかなんかかかってたら、いったい何の本なんやろうといらいらして、失礼を顧みずに横からのぞきこんだ経験はありませんか。そんなんは気にならんですか。私は気になる。ちらりとのぞいてそれが自分の好きな小説やったりしてその上それを読んでいる人が若くて美しいご婦人やったりしたら思わず声をかけたくなりませんか。なりますよね、ね、ね。実際にはよう話しかけられへんのやけどね。
 彼らはそんな隠すようなまねはしてなかった。堂々と書名がわかるように本を開いている。左側に座ってた少年は図書館で借りた本、右側の少年は古本屋で買うた本やった。なんでそんなことがわかったか。なに初歩的なことだよ。右側の彼の本にはビニールがかかってる上に背表紙の下に分類用のシールが貼ってあった。あれを見て図書館の本とわからん方がおかしい。左側の彼は「カドカワノベルス」を読んでた。角川書店はとっくに「カドカワノベルス」を廃刊にしてる。新刊書やないやろう。それだけやあらへん。カバーの色が微妙にあせていて、あれは日にあたって焼けたものと見たね。カバーの端のすり切れ具合は、普通に家に置いておいただけではああはならんという、ちょうど端がほつれるような感じ。ここらあたりを見分けるにはちょっと年期がいる。ほんまか。
 図書館で借りた本はタイトルは見えにくかったけれど「富士見ファンタジア文庫」。著者の名前は「神代創」とこれは読めた。中学生ぐらいが読みそうなものやね。古本屋の本はなんと山村美紗。「京都・浜名湖〜」まではタイトルは読めたけれど、残りの部分は鞄に隠れてわからんかった。京都に浜名湖などという地名があったかと首をひねったけど、タイトルから叙述トリックを使うてるとかいうことかな。ほんまか。
 神代創と山村美紗というコントラストがなんともいわれへんね。こいつら話が合うんかと心配したね、私は。かなり仲がいい友達どうしという雰囲気やったから、別なところで合う話題があるのかもしれへん。それにしてもあまりにも違いすぎるぞ。もしかしたら表面では仲のよいふりをしてて裏では「けっ、あんなもん読んでどこが面白いんや」とお互いに馬鹿にしてるとか。
 なんで人の読んでる小説のタイトルを見ただけでそこまで書く。人が何を読もうと勝手やろうが。まるで近所の若夫婦の新居にはためく洗濯物を見ながらケチをつけるおばはんみたいなことをしておるな。ほっといたれよ。

2月22日(火)

 仕事でカラオケボックスに行く。授業の一環であります。
 私の勤務している養護学校は知的障害児を対象としている。彼らは高校生といっても友だち同士でカラオケボックスに行ったりするのは難しい。行っても家族単位やね。そこで、余暇の過ごし方の学習として、友だち同士で娯楽施設を利用する経験をさせよう、ということ。
 勤務地は江坂の駅に近いんやけど、この江坂というところはもうむやみやたらにカラオケボックスがある。聞いたところによると、大阪でも最もカラオケボックスの多いところやそうです。それだけに店によっていろいろとサービスが違う。今回行ったのは一番利用料金の安いところ。平日の午後5時までやと、一人あたま1時間で90円。1時間ごとに飲み物は無料。アルコールもソフトドリンクもみんな1杯目は無料なんですよ。
 生徒を引き連れて受付で手続きをしているとき、おっさんが一人やってきて係の人に「1時間半」と言うている。「135円です」と係のお姉さんが言う。ちょっと待てよ。それでビールかなんか頼んだりしたら、めちゃめちゃ安上がりやんか。自動販売機でビールを買うよりもずっと安い。今日みたいに寒い日やったら、暖もとれるしな。
 そんなんで経営は成り立つんかいなと思うけれど、この前予約しに行ったときも、今日、受付で料金先払いの分を出しているときも、ひっきりなしに高校生らしい客がやってきている。そらそうやな。高校生には手頃な金額やもんな。本屋で本を買うて喫茶店でコーヒーを飲みながら読む方がよほど金がかかる。そういうお客を回転よく入れていって細かく稼ぐ薄利多売式のカラオケボックスということやね。
 実は、そのカラオケボックスと同じチェーンの店が私の自宅の最寄り駅前にもある。帰りにそこの料金を確かめたら、江坂の店の2倍はしていた。実は、その近辺には他にカラオケボックスなんかあらへんのです。競合する店がないんやから、無理に薄利多売をやらんでもええわな。
 原稿を書いたりするのにええかもしれへん。4時間予約したとしても360円。ドリンクは4杯も無料。好きな曲をBGMとして入れおいたら、喫茶店みたいに聞きたくないBGMを押しつけられることもない。そんな使い方は邪道かね。そやけどこの前、徹夜するために入ったカラオケボックスでは一曲もリクエストしなかったよ。別に係員が「歌って下さい!」と言いに来るわけやないしね。
 そんなことを考えるほど、あの低料金は魅力やったなあ。もしかしたら、「1時間半」のおっさんもそういう用途で使うてるのかもしれへんぞ。

2月23日(水)

 土曜の徹夜が響いたか、とうとうダウン。一日寝倒す。昨日のカラオケ授業は私の担当やったから、これが終わるまではと気力で保たしてたんやけれど、終わってほっとしたかな。

 奈良の明日香村で亀型の石の水槽が発見されたというニュースが新聞の一面を飾っている。新聞の解説によると、酒船石の真下にあって、酒船石から水を引いていたその受け皿やないかということらしい。酒船石自体なんの用途に使われてたか判然としないんやから、こういう書き方をするのはどうかと思うけどね。酒船石は以前実物を見に行ったことがあるけれど、水を引く道具には見えへんかったけどなあ。手塚治虫の「三つ目がとおる」で写楽が酒船石を使うて薬を調合するエピソードがあったけれど、その先入観があって、薬の調合台に見えた。恐るべきは手塚治虫の想像力とその影響かな。
 もうひとつ、解説を読んでて首をひねったのがこれが「日本書紀」に書かれている斉明天皇の失政の一つ、「狂心渠」であるというところ。斉明天皇が土木事業を熱心にやるから人心が離れてると蘇我赤兄が有間皇子に告げるというくだりがある。実はこれまではそういう土木事業をしたという遺跡が見つかってないんで、これは後世の人間が中国の話をアレンジして斉明天皇のエピソードにしたものやと言われてたんですね。これはかなり専門的な本にも書かれている。たぶんこれまで誰も酒船石を斉明天皇の土木事業に結びつけて考えたという説はたててへんかったと思う。それが、今回の発見ではあたかも斉明天皇の失政は事実やったかのように書いてある。
 私は専門家やないし、古代史についても何冊か本を読んだだけ、明日香村にもそう何度も足を運んでるわけやない。そやから偉そうなことは言われへん。そやけど、これまで専門家が書いてきたことには一切触れられへんで、あたかも発見されたばかりの遺跡にこういう解説がつけられたりしているのを読むと、なんか違和感があるね。
 これからは酒船石も一気に斉明天皇の土木事業の一つということに決めつけられてしまうんかなあ。どう考えても水を受けてどこかに引くようなものには見えへんものが、そういうものにされてしまうのかなあ。
 今回の発見は、かなり重要なものであることはいうまでもないけど、「可能性がある」と付け加えながらも読者をミスリーディングしてしまうような記事の書き方には、報道以上のものを感じたね。まだ証拠が出揃ってへん段階やのにね。

2月24日(木)

 やってくれましたね、「週刊宝石」。朝刊で広告を見たときには立ち読みだけですますつもりやったけど、あまりに笑わせてくれるんで、ついつい買うてしもうたがな。
 
「昭和37年生まれ」が身勝手犯罪のキーワードだ!
 
2月12日の日記で私が紹介した新聞記事の同工異曲。コメントしている「専門家」(全員敬称略)では安本美典、堤邦彦の二人がだぶっている。この方たちは昭和37年生まれの人間に何か恨みでもあるのか。
 コメントの内容を読んで笑うたのは、この日記で私がでっちあげたこじつけとほとんど変わらんようなことを各「専門家」が述べているということ。時代背景を並べ立て、マイナス要因を書き連ねればどんな世代でも悪く書けますよ、実際。
 さてさて「専門家」諸氏はどんなことを書いて笑わせてくれてるのか。少し引用してみよう。まずは安本美典。「生活が豊かになると、時間的な余裕が生じ、趣味などに没頭できる時間が持てるようになる。人によっては、自分の趣味の”穴”を掘り続けることになる。それ自体は悪いことではない。しかし、
掘り進めていくうちに、それが社会全体のルールからはみ出してしまうことがある。社会を逸脱した結果、犯罪が生み出された。”脱ルール世代”の犯罪といえよう」。そうですか。趣味を突き詰めると社会のルールから逸脱して犯罪を犯しますか。それは昭和37年生まれに限ったことやないと思いますが。
 町沢静夫は、親が自分の世代の貧困を経験させたくないと、物を与えて子どもを喜ばせ、子どもに対して過保護になったという前提から「家庭内暴力のほとんどが、親の過保護が原因。
貧困は子供たちにガマンをしつけてくれたが、豊かさはしつけ不足を招いてしまった。この世代は、ある意味では本当の愛情を与えられず大人になってしまったといえるかもしれない」と結ぶ。本当の愛情ってなんなんですか。衣食足りて礼節を知る、というやないですか。この論でいくと、スラム育ちの子どもは全てしつけが行き届いていることになるぞ。
 稲増龍夫は親の世代分析をしている。「彼らの両親の多くが思春期の最も多感な時期に敗戦を迎えている」として、「あらゆる価値が一夜にして転回し、心に空洞感を残したまま育てられた。それがなんらかの形で子供に影響を及ぼしているのではないか」。子供が同じ年に生まれたからというて、親まで同じ世代に一くくりにするのはいくらなんでも乱暴すぎる。「その子供たちは、
団塊の世代と新人類のあいだに挟まれている」。待ってよ、新人類とは私たちの世代のことやなかったんですか。確か学生時代に私たちをターゲットに「朝日ジャーナル」が「新人類の神々」という特集を組んでた記憶があるぞ。
 赤塚行雄は「偏差値さえよければすべてよしという風潮のもと、偏差値社会についていけない子供は、今度は家庭内暴力をふるいだした」。あらら、安本先生の見解とはかなり違うぞ。生活の余裕から趣味に没頭する人間像と偏差値に追われて汲々とする人間像。さてどちらがこの世代の本当の姿なんやろうね。
 堤邦彦はのっけからものすごいことを書いている。「彼らの世代からは
なぜか有名なスポーツ選手が生まれていない」。嘘です。横綱大乃国、元タイガースの中西清起投手、タイガースの和田豊内野手、ライオンズの伊藤勤捕手、ドラゴンズの愛甲猛内野手、みんな同い年です。だいたい有名なスポーツ選手が出てなかったとして、それと犯罪と何の関係があるんや。「彼らの世代から急に、父親を偏愛するようになったり、えらく年の離れた男性とつきあう女性が増え始めている」。ほんまか、ほんまやな。ほんまやとして、それと犯罪と何の関係がある。「これらもろもろの事象が重なって、昭和37年前後に生まれた世代が、何かしらのターニングポイントになっているのだろう。しかし、その原因ははっきりとは確立されていない」。それやったらもっともらしいことを書くなよ。追及されたときの逃げ口上と違うか。
 あ、かなり長くなりましたな。山崎哲、坂川山輝夫、池内ひろ美とそれぞれ好き勝手なことを書いててつっこみたいんやけれど、まあ実物で確認して下さい。明日の日記のネタがなかったら、また紹介してもいいけど。
 ともかく、なんでこうも私たち昭和37年生まれをいじめたいのでしょう。別に昭和37年生まれでなくてもええんやろうね。たまたま最近昭和37年生まれの人間が目立ったから、というだけのことやろうからね。
 この記事を読んだ妻が言う。「ええなあ、注目されて。私、生まれが1年ずれてるだけやのに」。あの、もう少し、ええ注目のされ方をしてほしいんですけど。

2月25日(金)

 なにやらけったいなチラシが郵便受けに入っていた。私の住む大阪府パナソニック市の市会議員たちが、ある一人の議員を糾弾するチラシやった。実は先日来、新聞なんかで報道されてて、この議員は現在注目の的やったりする。
 要はこの議員が自分のサイトでおもしろおかしく市議会の様子を報告するのを苦々しく思うた議員たちによる嫌がらせ、ということらしい。私はどちらの政策が正しいのかよう知らんというか、それほど関心がなかったんやけど、嫌がらせの仕方が子どもじみてるんであほらしなったことだけは確か。
 この議員は、ふだんからネクタイをしていない。議会の質問のための資料を入れる鞄を常に持ち込んでいる。というわけで、「市議会にはネクタイを締めて出席しなければならない」とか「議会に鞄を持ち込んではならない」というような規則を新たに作り、それに従わんからというて問責決議を出したり2日間の出席停止処分を出したり、辞職勧告決議を出したりしてるそうな。
 ああ恥ずかしい。「学校からいじめをなくす教育改革をします」てな公約をしてる議員もこの中にはいるんやで。これ、実に幼稚くさいいじめに見えるけどなあ。自分らが一人の議員をいじめておいて、子どもに「人をいじめるな」とは言われへんように思うけどなあ。
 もっとも、チラシによると「議会の品位を汚し、その権威を失墜させたため、公開の議場における陳謝の懲罰を課した」ということらしい。これだけ読むとインターネットのサイトで好き勝手なことを書かれたから謝るように勧告しただけみたいやね。ネクタイを締めろとか鞄を持ち込むなとかはその議員とは関係ないという態度のようです。
 そやけど、その議員が当選した当初はそんな規則を作ってないのに、今さらわざわざ作るというのはどう見ても姑息な嫌がらせに見えるけどなあ。
 なんにせよ、多くの議員たちが一人の無党派議員の言動にこれだけ神経質になってるということは、かえってその議員が書き散らしてることが自分たちに都合が悪いから排除したがってることをはっきり示してるように思えるんやけど、どうかな。
 しかしなんですな、市民の代表たる市会議員がこんなことで議会の貴重な時間を消費しているということは、なんか市民の民度の低さを物語ってるみたいでかなわんし、今のところ市民の一員である私としてはなんか迷惑やね。ああ恥ずかし。

2月26日(土)

 今日は学校協賛の「ボウリング教室」に付き添いという形で出かける。勤務校の生徒や卒業生たちが楽しそうにボウリングをしているんやけど、1フレーム投げるごとに左右のレーンを交代してやっている。なんでもアメリカ式なんやそうです。くわしく聞いたわけやないけれど、アメリカのボウリングの試合なんかでやっているんやろうね。
 思うに、ボウリングのレーンは、一応ちゃんと規格があってどのレーンも同じように作られてるはずやけれど、板の反りぐあいや油ののりぐあいなんかは、微妙にことなるんと違うやろうか。となると、いいレーンにあたった選手は思うようにボールが行き、少しでもひずみのあるレーンにあたった選手は思わぬ方向にボールが転がっていくということもあり得るわけや。そこで、条件を同じにするためにお互いに一投ずつ交代してレーンを使うようにしたら、ということやないかと思う。
 そう考えると「アメリカン・ルール」ということにも合点がいく。アメリカという国は本音はともかく建前は「平等」を重んじる国やと思う。そやから、ボウリングのルールもなるべく不公平にならんように条件を揃えるようなものにしてるんやないやろうか。
 いや、コーチの人にくわしく聞いたわけやないから、これはみんな推測ですよ。しかし、条件を揃えるような形の方法が「アメリカン・ルール」と呼ばれているという点では、あたらずとも遠からずやと思うんですが。
 2つのレーンを2人で使うてる分にはそれほど混乱はないけれど、3人以上でやっているところはなかなか順番がややこしい。もっとも、今はスコアをコンピュータで制御しているから、目の前のモニターに誰がどちらのレーンで投げるかちゃんと表示されてるから、さほどの混乱はなかった。便利なもんです。
 ボウリングは学生時代にサークルのメンバーでよう行ってたりしててなじみ深いものやったはずやけれど、そんなルールがあるなんて全然知らんかった。よほど好きな人でないと知らんルールと違うやろうか。何事であってもやっぱり奥は深いもんやねえ。

2月27日(日)

 休みなので録画しておいてたまっていたビデオを一気に見たりする。アニメ版の「ブギーポップは笑わない」も6回目くらいまで見た。書評の参考になるかなと思うてみてたんやけれど、もう見るのをやめようかなと思う。脚本や演出は凝ってるんやけれど、こうすれば若い視聴者層に受けるというツボを押さえすぎていて、それが透けて見えるもんやから、おっさんにとっては見てて辛い。
 ただ、これが自分の高校生くらいにやってたら、きっとはまってしもうてるかもしれへんね。もどかしいばかりに悶々と悩む時期に、なにか共感をしてしまうような作りになってるし、しつこいばかりに繰り返すカットバックの技法も、技巧的なところに感心してしもうてるのと違うやろか。そう、「機動戦士ガンダム」を本放送で見てたときみたいにね。そらもうあの時ははまったはまった。金曜日にはクラブを早いとこ切り上げて自転車を飛ばし家に帰ってテレビの前にかじりついたもんです。ビデオに録っておいたらええやないかと思う人もいるかと思いますが、そんなええもんは私の高校生時代には生活に余裕のある家にしかなかったからね。ラジカセをテレビにつないでテープに音声だけ録音して聞き返すとか、そういうことをしていたころです。こんなん今の高校生に話してもピンとこないやろうね。
 昔は良かった、と言い始めるとおっさんの証拠やけれど、そういう環境面では今の方が絶対にええと思うぞ。
 聞くところによると、同僚の先生の子どもさんは中学3年生で、「ブギーポップ」にはまってるそうな。アニメは録画して見て、原作の文庫も読んでるらしい。もっともその先生は岡野玲子の「陰陽師」を前巻揃えて徹夜して一気読みするような方ですが。「『ブギーポップ』と同じ文庫から出てる小説で、もっと面白いのがあるんですが、お子さんに教えてあげて下さいよ」と、千両箱が時空を超えていかついおっさんが漫才師になり日本が大阪の支配下に置かれるあの小説を薦めておいたけれど、ちゃんと読んでくれるやろうか。
 話がそれたけれど、その中3の子どもさんの気持ちは、わかるなあ。そやけど世間の垢にまみれたおっさんには「ブギーポップ」のアニメはきついぞ。ゲームもしないアニメもあかんおっさんはいつまでヤングアダルトの書評をするのであろうか。まあ、仕事の口があるうちが華。文句を言わんと本でも読みましょ。

2月28日(月)

 今日で2月も終わりかと思うたら、今年は閏年で明日も2月やないか。なんか損をしたような気分になるね。待てよ、1日多いから得か。どっちなんでしょう。あなたはどっち?

 柳家小三治師匠のあみだした「究極の卵かけご飯」に挑戦してみる。以前から試してみようと思うてたんやけれど、最近の朝食はたいてい前の日の晩ご飯のおかずの残りで食べてたんで、なかなかやってみる機会がなかったんですな。
 従来の卵かけご飯は、お椀に卵を割って醤油を垂らしぐっちゃんぐっちゃんにかき混ぜてご飯にぶっかけ、飯の一粒一粒に卵がいきわたるようにして作っていた。師匠もそうしていたという。ところが、師匠のあみだした「究極の卵かけご飯」は従来の概念をうち破る画期的な卵かけご飯。
 どう作るかというと、茶碗に盛ったご飯の中央にくぼみを作り、そこに卵を割る。醤油を好きな量だけ垂らし、黄身の表面をつついて軽くつぶしたら、あとは茶碗の底から3〜4回ほどかき混ぜる。これでできあがり。これが実にうまい。ご飯だけの部分、白身だけの部分、黄身だけの部分、醤油だけの部分、それらが混ざり合った部分、それぞれの味が渾然一体となって舌の味蕾になんともまろやかな風味を与えてくれる。こんなにおいしいものになるとは思うてませんでした。「究極」というだけのことはある。
 しかし、人のあみだしたものを真似して食べるだけでは能がない。ここはやはりオリジナルで勝負せんならん。かというて、
冬樹蛉さんの真似をしてひねった料理を考え出すというのも二番煎じであかん。ここは小三治師匠のようにふとなにげなく食べているものに改良を加えるというところで勝負してみたい。
 そこで考えたのが「究極の汁かけご飯」やね。お味噌汁の残りをご飯にただぶっかけて食べると、ご飯がみそ汁を含んでふくらみ、ご飯そのものの腰を奪うだけやなく、みそ汁の味そのものも薄まってしまう。ならば、まず最初にみそ汁をかけるときに、茶碗の3分の1くらいだけにしておく。この時にみそ汁の具を入れてしまうと風味が半減する。あくまで汁のみを入れる。入れたところでご飯にからめるように混ぜる。ご飯にいきわたったところで一気にこれも汁だけ茶碗の縁まで注ぐ。仕上げに具だけ箸でつまんでご飯に乗せる。これを一気にがさがさとかきこむ、というのはどうか。これやとご飯がじわじわとふやけたりすることもなく、おいしい汁かけご飯になると思うんやけど。
 思うだけではいかん。やはり実践してその味を確かめんとな。次に夕食のみそ汁が残った翌朝、さっそく試してみることにしよう。はたして「究極の汁かけご飯」はうまいかまずいか。実践した結果はこの日記で報告することにしよう。読者諸君、その日を刮目して待たれよ!
 あ、今日はネタにするようなことがなかったということ、わかりましたか。面目ない。

2月29日(火)

 なんでも今日は400年に1度の閏年の閏日なんやそうです。いったい4年に1度の閏年とどう違うのか、ようわからん。私の頭が悪いからなんか、説明する人たちも実はようわかってへんからなんか、どっちやろ。
 妻が「ニュースのサイトで検索したら、わかりやすく書いてあるところがあるんと違う」とアドバイスしてくれたけど、めんどうくさいんでやめ。
 新聞によると西日本のアメダスがおかしいことになったらしい。コンピュータが400年に1度の閏年に対応してへんかったんやて。そういう記事にやったら今年がなんで特別な閏年なんか解説してあるやろうと期待して読んでみたけど、「400年に1度の特別なうるう年」と書かれてあるだけで説明なし。世間の人はみんな理解してるから書かんでもよろしいというんか。わからんのはわれわれ夫婦だけやというんか。それとも書いた記者も実はあまりわかってへんのかな、やっぱり。
 妻は「2400年には何が起こるんやろう」などという。そんな先のことを心配してられますかいな。今から400年前の人が今のわれわれのことを心配してたか。1600年というと、「関ヶ原の戦い」のあった年やで。津川雅彦が爪をかんでべっと吐き出してた頃やで
。あ、大河ドラマを見てない人にはまるでわからん例えになりましたな。「関ヶ原の戦い」の頃にはコンピュータもなかったし、だいたい使用してる暦法が違う。太陰暦の閏年はもっとややこしいからね。3月を2回繰り返したりするんやから。そんな頃の人が400年後を心配してましたか。
 いったい今年は4年前の閏年とどう違うんや。カレンダーを見ただけやとやっぱり2月は29日までやぞ。どうせ特別な閏年なんやったら大サービスして31日までやるとかそうはならんか。それぐらいはっきりしてたら「おお、今年は特別な閏年や!」と納得できるんやけど。増やしすぎたらあかんのやったら3月と5月をそれぞれ30日までに減らして帳尻を合わしたらよろしい。そんなことをしたらよけいにコンピュータの誤作動を心配せんならんね。
 いったいどこが特別なんでしょう。実はほんまにささいなことなんかもしれへんな。もういちいち騒がんでもええがな。

※「葵 徳川三代」では、津川雅彦扮する徳川家康がいらいらしたら爪をかんで、おつきの差し出す懐紙にいちいち吐き出すんです。これを気持ち悪いとNHKにわざわざ抗議する人が続出していると今週の「アサヒ芸能」に書いてあった。家康はほんまに爪をかむ癖があったらしいのでそれをもとにした演出だと説明すると抗議した相手が怒り出すらしい。暇な人が世の中には多いようだ。


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