ぼやき日記


2月21日(水)

 今日はここには書かれへんけれど事情があって22時30分ごろまで学校に。公務員の守秘義務があるからここには書かれへんけれど、仕事がたまってそれを消化するというのやなく突発的に居残りというようなことになって原稿の締切りやなんやかんやあるんやけれどそんなことは言うてられません。あくまで本業優先であります。プライバシーに関わることなんでここには書かれへんけれど、かなり神経をすり減らし、なんとか業務が終了して帰宅する道のりの長かったこと。知らん間に遠い町に宿替えしたんかと思うたけれど、間違いなく自分の家に着いたところをみると宿替えはしてへんかったらしい。時空に歪みが生じて知らぬ間に大回りをしていたてな陳腐な落ちでは第一次選考で落とされるな。何の選考や。つまりは神経なるものが早く帰りたいと先走りし、肉体は通常どおりの速度しか出してへんということなんやけれど、そんなひねりのないまともな落ちでは第一次選考は通りませんな。そやから何の選考や。というわけで、今日は日記どころやないのです。こんだけ書いたら十分ですか。問題があるからここには書かれへんけれど、日記を書く気にもならんほど疲れた。でも書いてますな。どんな事情か知りたいですか。それだけは人権問題に発展するんで書かれへん。書いてぼやけば心が落ち着くやろうけど、書いたが最後私は不適格教師の烙印を押されて懲戒処分を食らうことになると予想されるから、何があっても書きません。残念でした、やーい。

 ところで、昨日の日記に書いた「レッドシャドウ・赤影」には敵の忍者として元小結の舞の海も出演するそうな。ますますキワモノめいてきた。あかんで。

2月22日(木)

 大阪映画村、やなかった、ユニバーサルスタジオジャパンが開場するというのでまあとにかく前評判が高い。会場当日の前売りはもちろん、そのあとしばらくの土曜日曜の切符は全部売り切れやそうな。
 話題作りもうまくて、今日は恐竜のはりぼてを搬入するのを見せつけるようにやったらしい。ヘリ取材なんかも出てきっと明日のスポーツ紙には写真入りで載るんやろうな。
 ところで、もうご覧になった方もいてはるやろうけれど、テレビのCMではあの浜村淳さんを起用している。映画ファンで知られる浜村さんやけれど、なんでか知らんけれど入れてもらわれへん。必死になってぶら下がり「なんで入ったらあかんのや!」と叫ぶ浜村さん。上からは石やらなんやらいっぱい落ちてくる。それでも手を放さない浜村さん。
 妻が「なんで浜村淳は入ったらあかんの?」と不思議がる。あれは、浜村淳を入場させたが最後、USJの内容を全部しゃべってしまうからと違うの。そらもう浜村さんの映画紹介というたら始めから終わりまで何もかも説明してしまうということで有名やからね。どんでん返しの落ちであろうと意に介さず話してしまう。それが芸やというたらそうなんやけれど、あれはいかんと思う。ところが、USJはそれを逆手に取ってるわけですな。この説は妻も納得しくれたし、関西在住の方ならばみなさんうなずいていただけると思う、というよりなんで妻がそんなことに思い至らんかったか不思議なくらい。
 ちらほらと小出しにしてくる情報で客に「行きたい」と思わせるやり方で思い出したんが、映画「スターウォーズ」の日本初公開の時のことやね。あの時もおもろい凄いと前評判は高かったけれど、なかなか公開してくれへんかって「見てみたい見てみたい」とじりじりいらいらしましたな。ハリウッドの常套手段なんかしらん。
 ともかく、私もUSJには一度行ってみたい。しばらくは満員でしんどいやろうから、熱がさめて人出が減った頃に行くことにしよう。それくらいになったらスタッフも慣れてきて場内のプログラムも練れてきてることやろうしね。極力「行った人の話」はきかへんことにしよう。情報過多の頭でっかち先入観いっぱいで遊園地に行くなんておもろないやないですか。もっとも、そういった情報を仕入れて安心してからでないと行かれへんという人もいてるんやろうけど。そんなん楽しいかなあ。

2月23日(金)

 どうも私は世事に疎くて困るけれど、最近チーズという食べ物がなくなったらしい。そういえば長らく食べてへんかったけれど、なくなってたとは知らなんだ。なんでチーズがなくなったのかを書いた本がベストセラーのトップに入っているらしく書店で平積みになっている。なんでも大企業の研修に使われてたりしてるということやから、きっとチーズが消えたことの原因なんかを究明したすぐれた研究書に違いない。まさかネズミと小人がチーズを探して旅をするというような下らん底の浅い寓話なんかではなかろう。書店で10分くらいで立ち読みしてしまえるような本を研修に使うとは思われへんからね。なんでチーズが消えてしもうたんか私にはわからんけれど、きっと雪印乳業の加工乳再使用事件が引金になったに違いない。
 コンビニで「スライスチーズ」を昨日見たばかりやけれど、これはおそらく消えてしもうたチーズに変わる代用品なんやろう。バターの代用品のマーガリンみたいに、植物性油脂を使用しているのかもしれへん。なにしろ優秀なサラリーマンが競うようにチーズがなくなった理由を書いた本を読んでいるんやから、ほんまもんのチーズがコンビニで手軽に買えるわけがあらへんわな。
 なんでチーズがなくなったんか知りたいんで書店に積んであったその本を手にとってみたけれど、残念ながらネズミと小人のお話で、これはたぶんベストセラーになった研究書に便乗して書かれたものに違いない。「泳げ!たいやきくん」が大ヒットした時に、「私の恋人たいやきくん」やとか「がんばれ!たこやきちゃん」というレコードが発売されたのと同じ類いのもんやろうね。
 ベストセラーになったという研究書はなんぼ増刷してもすぐに売り切れてしまうらしく私はいまだにどこの書店でもその本を見かけへん。一度読んでみたいんやけれどなあ。
 なんにせよ、ほんまもんのチーズがもう食べられへんのは残念なことやね。「かに風味かまぼこ」ではほんまもんの蟹のうまさを味わうことがでけへんみたいに。それにしても、なんでチーズは消えてしもうたのか。どこに消えたんか、ぜひ知りたいもんやね。

2月24日(土)

 やっとこさ家に「SFが読みたい! 2001年版」(SFマガジン編集部・編)が届いた。発売日から1週間かかったことになるけれど、初めてじっくりと読むことができた。
 で、ふと気がついたことなんやけれど、これ、いわゆる「ムック」というやつで、一般書籍やねんな。「S−Fマガジン」の増刊やあらへんのやな。ということは、この本に寄稿している多数の書き手の共著ということになるんやな。そして、私は2ページだけやけれど原稿を書いている。つまり、私はこの本の共著者ということになり、よう考えたら、奥付に名前は載ってへんにしても、私の初めての著作ということになるんかな。おおお、せめて40歳までに自分の著作した本を手にしたいと思うていて、この分ならそれはちょっと無理やないかとあきらめかけていたけれど、なんと自分でも意識してへんうちに著書が出ていたとこういうことになるんやないか。これは驚き。
 そうかあ、自分の著書かあ。何も感慨もなければ喜びもないなあ。それに自分のプロフィールに「著書に『SFが読みたい! 2001年版』(共著)がある」と書くのは無理があるような気がするなあ。うーん、ここらあたり、ほんまはどういう扱いになるんやろう。だいたい原稿は買い取りで印税は入ってこないしね。これを著書というにははばかるものがあるか。今度「S−Fマガジン」S澤編集長から電話がかかってきたらたずねてみよう。

2月25日(日)

 夕食後、ポンカンを食べる。私は妻に「ポンカン」と言われたから「ははあ、これは『ポンカン』やねんなあ」と思うたけれど、何もなしで渡されたら普通のミカンかと思うて食べてたに違いない。それくらい小さい。そういえば、この前学校の給食についていたポンカンもまるでミカンみたいに小さかったなあ。食べたら味が違うのはわかるんです。実が硬うて色も濃い。そやけど、私の記憶にあるポンカンというのはもっとでかくて皮がごわごわしててむくと皮と実の間に空間がある、そんなものやったような気がする。新種なんやろうか。ミカンくらいの大きさで食べやすいポンカンがあれば、確かに便利ではあるから、ミカンかオレンジあたりとかけ合わせて作ったんやろうか。
 私は柑橘系のものはそれほどすすんで食べる方やないし、特に好物というわけやないけれど、このポンカンのミカン化には戸惑いましたね。まあ好物やないから食べやすうなるんはありがたい。そやけど、柑橘類が好きな人からしたらこれは許されへんかもしれへんね。「ポンカンならポンカンらしく自己主張しろ! ミカンのふりをして食べやすくなるという卑屈な真似はするな!」と怒ってるかもしれへん。いずれ出てくるかもな、「ミカンみたいないよかん」「ミカンみたいな夏ミカン」「ミカンみたいな甘夏」「ミカンみたいなグレープフルーツ」「ミカンみたいなざぼん」「ミカンみたいなブシュカン」そこまでいったら意味ないですか。そんな風に柑橘類のミカン化が進み「一億総ミカン化」と柑橘評論家を嘆かせるようになるかもしれへん。
 私はイチゴとバナナが好きな子ども口やから、ミカンがどないなってもかまへんけれど。ミカンは好きやけどポンカンは嫌いというような人がいたら困るやろうなあ。柑橘類が好きな人はそこまで選り好みはしませんか、ふつう。

2月26日(月)

 卒業式まであと10日ほどになり、私たち教員も卒業式に歌う歌を覚えてくれと楽譜を渡された。
 卒業式というたら歌がつきもの。古くは「螢の光」、「仰げば尊し」。それからNHK〈みんなのうた〉の「ありがとうさようなら」。私が高校を卒業する頃には海援隊の「贈る言葉」が流行ってたなあ。菊池桃子の「卒業」やら柏原芳恵の「春なのに」、おニャン子クラブの「じゃあね」なんてのもあった。さすがに尾崎豊の「卒業」は学校の卒業式ではあんまり歌われてへんと思うけど。
 結婚式ソングの「ハッピーサマーウェディング」やらオリンピックソングの「I WISH」みたいな企画ものを連発してるモーニング娘。が卒業式ソングを歌うてへんのは意外やね。つんくがここらあたりを見逃すはずはないと思うんやけど、なんでやろ。
 で、私の勤務校の今年の卒業式ソングは花*花の「さよなら大好きな人」。花*花の歌自体は素朴で悪くないけど、どうも感性と表現が幼すぎてなんとなく私の肌にはあわへんな。自分の感じたことをてらいなく歌えるというのはひとつの才能やとは思うけど。できたら、もう少し深い意味をこめたフレーズが歌詞の中に挿入されてたらええのにと思う。なんかこの文学的な響きに欠けるところが惜しい。なんとなくうすっぺらい感じがするんやね。
 それにしても「さよなら大好きな人」という歌は、確か作詞した人のお婆さんが亡くなって悲しくなった気持ちを歌うたものやったんと違うかしら。これは厳密にいうと卒業式ソングとはいわれへんなあ。別れの哀しさを訴えるという意味では卒業式に使うてもおかしくはないけれど、そんな後ろ向きな気分やなしにもうちょっと先々に希望の見えるような歌で送ってやりたいと思うんやけどね。なんとしてでも生徒と教師を泣かせようという狙いでもあるんかな。
 しばらく生徒といっしょに「さあよならだいすっきなあひっとお」と毎日歌うことになるんやな。アニソンファンの同僚A氏が名作アニメ「宝島」のテーマソングの方がええのにと言うてはりました。あ、それええな。「いつも微笑みを忘れずに勇気を胸に進もうよ」なんて旅立ちにふさわしい。でも、音楽の先生は知らはらへんのやろうな。まあ、そういうもんです。

2月27日(火)

 今日はちょっと落ち込んだりしたけれど、それでも私は元気です。まあ人間ミスもあればうまくいくこともある。もうじき月が変わるから、運も変わるでしょう。落ち込んだ時はタイピングソフトで気分転換。おらおらおら、キーボード叩きまくり!

 どうも私は人間関係の機微に疎いところがあって、一番の欠点は人との距離を測れないところやないかと思うている。まず、どのような話題で人と話をしていいかつかみかねるとろがある。例えば古いアニメの話題をしだしたとすると、ついつい誰もわからんようなことまで調子に乗ってしゃべってしまう。これがSFファン同士で話をしていると、相手はよりくわしかったりするか、あるいはくわしくなくても面白がって聞いてくれたりするけれど、職場の同僚やとなにかうさんくさげな表情で見られてしもうたりする。
 親しくない相手には話し掛けるきっかけがない。親しくなったかなと思うとついついいらんことまで喋ってしまい、相手を不愉快にさせてしまう。小さい時から言われてました。「あんたは一言多い」。その一言を抑えられへん。
 そこで結局ごく親しい人間と共通の話題ばかり喋ってしまう。こういう人間ほどネットにはまったら蟻地獄みたいにずぶずぶと落ち込んでしまう。閉じた世界に安住し、そこでいらん情報を垂れ流してとくとくとしてしまう。ネットやと文字で表現できるから、書いてしもうたあとで読み返せる。あまりにいちびりすぎてることがわかり、落ち込んでしまう。
 私は気が小さいというのかなんというのか、そういう負の思いを引きずってしまう傾向にある。落ち込んだ気分を、せんでもええのに反芻してさらに落ち込む。悪循環であります。
 まあ、そういう人間やからファン活動なんかに活路を見い出し、ついには書評家てなもんになってしもうたんやろうね。そのかわり「こいつオタク」という嗅覚は鋭く、職場でそういう人を見つけては狭ーい世界の話題ばかりしてしまうのであります。今さら性格は変えられへんから仕方ない。
 しかしまあ、社交的な人やら何を言うても許されてるような人を見ていると、なんか羨ましいなあ。絶対自分はそないなられへんと自覚してるからよけいやね。

 てなことを書いてしまうということはまだ落ちこんでおるということですなあ。嫌になる。

2月28日(水)

 テレビで放送予定やった映画「タイタニック」の放送が延期になったという。先日は「GODZIRA/ゴジラ」のテレビ放送が延期になったと報道されていた。理由は「えひめ丸原潜追突沈没事件」に配慮したからやという。つまり、自粛というやつですな。
 そこまでせんなんもんなんかと思う。確かに、家族や関係者はあんまり見たくないシーンがあるかもしれへん。そやけど、見たくない人は見なんだらええことで、見たい人かて多いはずです。「タイタニック」を見た人全てが「えひめ丸」のことを思い起こして不快になるやろか。まあ「こういう時期に不謹慎だ」という電話をかける人もいてるかもわからん。それを恐れてのことでしょう。
 そやからというてなにも放送延期にする必要がどこにあるかな。過敏になってるだけ、という気がするけどな。
 昔「8時だヨ!全員集合」が俗悪番組の代表と槍玉にあげられていた。「子どもに悪影響を与える」そうな。そのころ山藤章二さんが「テレビにはスイッチってものがあるんだよ」と書いていたのを記憶している。見たくなかったらテレビをつけへんだらええんやん。それに、テレビのチャンネルは一つだけやないぞ。他のチャンネルの番組かて見られるぞ。
 「タイタニック」や「GODZIRA/ゴジラ」を放送したら、原潜を支持したことになるとでもいうんか。あるいはそれを見たら自分も原潜に乗り込んで急浮上を体験したくなるんか。そうはならんでしょう。
 事故に「配慮」してるというけど、家族や関係者からクレームでもついてるんか。それはないと思うけどなあ。というか、それどころやないのと違うか。要は自分らが批判の対象になりたくないと、そういうことと違うの。「配慮」やら「自粛」という言葉の影に見えるうさんくささが気になる。放送したらええやん、別に。


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