ぼやき日記


10月11日(木)

 野依良治名古屋大学教授の「不斉合成の研究」に対しノーベル化学賞が贈られることになった。日本人では10人目やそうです。2年連続の受賞者ということやけれど、なんかまだまだ少なすぎるなあと思う。
 というのも、戦後の日本では高度経済成長のもとで世界に誇る発明や発見や研究が行われてきたはずやし、私が知らへんだけで、本来なら受賞に相当する研究をしている人はかなりいてるに違いない。
 なんでやろうなあと思う。日本人が自分の業績を世界にアピールせえへんということもあるかもしれへんけど、それよりも大きな理由に多くの研究が個人の業績やなく企業なんかの業績になってしもうてるということがあるかもしれんね。
 最近では企業内で開発した特許に対して正当な対価が与えられてへんという内容の訴訟が起こったりしている。その研究者は海外の大学に招聘されてその企業を去っている。そうやって独立した人はともかく、プロジェクトのグループの一人として最後まで組織に残った人なんかは結局は個人としての栄誉を誉め讃えられたりする機会は逸しているのかもしれへん。NHKテレビの「プロジェクトX」を見たりすると個人よりも「プロジェクト」という図式が中心やった時代があったんやと強く感じる。
 そやけど、これからは日本人のノーベル賞受賞者なんか毎年当たり前のように出るようになるのと違うかという気がしている。バブル崩壊以後、終身雇用という形態が崩れヘッドハンティングをする企業や研究機関がどんどん増えてきたということになると、企業の「プロジェクト」よりも研究者にもっとスポットが当てられるようになるやろうし、優秀な人材の海外流出もこれまで以上に進むやろう。そうなると、個人に贈られるノーベル賞受賞に有利な条件下にある人材も増えてくるのと違うかな。
 ノーベル賞受賞者が国民的な人気を得る時代やなくなっている。そのことを考えあわせると、日本からノーベル賞受賞者が出ることなんかあたりまえというようになりそうなもんやけどね。あくまで素人考えやから、実情は違うかもしれへんけれど。

10月12日(金)

 今日は珍しく夜はテレビを見て過ごす。「漫才2001」なる漫才だけの番組があったんで、全国ネットで漫才ばっかりの番組というのは久しぶりやったからね。
 中川家ら若手のホープと大助・花子やトミーズ、そして横山ホットブラザーズまで出演してたりしてなかなか面白かった。
 特に私にとって一番面白かったのは、ザ・ぼんちがこの番組のためだけに久しぶりに再結成されたこと。ぼんちおさむさんは俳優としてピンで活躍してはるけれど、里見まさとさんは亀山房代さんとコンビを組んで活躍してるわけやから、ほんまにこの番組だけの復活ということになるやろう。
 漫才のパターンは20年前と変わらずおさむさんがほとんど切れかけの芸を見せ、それをまさとさんがうまく締めるというものやったけれど、まさとさんの締め方にかつてはなかった「相方を遊ばせる」という余裕みたいなものを感じることができた。
 これはきっと二人ともピンでずっとやっててこの番組で久しぶりに漫才をしたというのなら、こうはいかへんかったやろうな、と思う。おさむさんの芸は漫才としてはあまり間がいいという感じではなかった。ギャグは凄まじささえ感じさせたけど。いうたらピンの芸ですわ。ところが、まさとさんは時にはつっこみ時にはいなし、その間のずれをギャグを受けることによって漫才の間にもっていっていた。ここらあたり、ずっと漫才を続けてきた中で受けの芸が完成されたんやなあと感じさせるものやった。二人でしゃべって笑いをとるという秘訣を体得してへんとああはいかへんかったやろう。
 往年のザ・ぼんちの迫力を楽しむことができたという意味でも見てよかったと思う。できたら次は太平サブロー・シローの復活を期待したいところやけれど、やっぱり無理かなあ。

10月13日(土)

 狂牛病騒動のとばっちりを受けて私の勤務する学校でも牛肉がメニューから消えた。狂牛病に対する厚生労働省のこれまでの無策ぶりにもあきれるけれど、今さら大騒ぎしてどないするねんという気もする。これまで野放しにしておいたということは、我々の知らんうちに牛骨粉で育った牛からとった牛肉エキスを体内に摂取していたということでしょう。国内で発病したから大慌てで使用を取り止めたりしても手後れやないかと思うんやけどなあ。こういうのを「泥縄」という。
 まあ何もせんよりましというものではあるけれど、こう一気に牛肉を排除してしまうというのも行き過ぎやないか。挙げ句の果てに大臣が焼き肉食うて「大丈夫」とかいうてアピールしてるのには笑うてなしゃあない。狂牛病というのは食べたら即発病するもんなんですか。潜伏期間はないんですか。そういうしょうもないことをして事足れりとする大臣には脊髄を生で食うてもろたらよろし。
 私ら子どもの時分からいっぱい体に悪いものを知らず知らずのうちに食べさせられてるんやからね。PCBが含まれてるからというて魚が食卓から消えたという時期もあったんです。チクロ入りのお菓子を食べてた時期もあったしね。O−157対策は今はどないなってるんですか。
 なんかいつの時代も同じようなことばかり繰り替えしてるような気がするね。厚生労働省の方たちの辞書には教訓やとか引き継ぎやとかいう言葉は書いてあらへんのかもしれへんね。

10月14日(日)

 「サイボーグ009」の3度目のアニメ化ということで以前から楽しみにしていたんやけど、今日その第1回があったんで見てみる。
 だいたい私は「サイボーグ」という言葉や意味は小学校低学年くらいにこの「009」で覚えた。それだけ子どもの頃から親しんでいる漫画やねんな。あ、「死の商人」というのもこれで覚えた。よう考えたら、小学生にまで「死の商人」というものをある程度理解させたんやからたいしたもんですな。いとこの持っていたコミックスをむさぼるように読み(確か「地下帝国ヨミ編」やと思う)、友だちの持っていたコミックスを借りて読み……。自分で買うたのは中学生になって第1次漫画文庫が起こった時やったから最初に読んだ時から数えるとかなり後になってからやね。
 ある意味ではSF用語の基礎を私は「サイボーグ009」から教わっていたのかもしれへんね。SFファンとなるための「母乳」はいろいろあったけど、「サイボーグ009」もそのうちの一つやと思う。
 さて今回のアニメ化やけど、事前に「原作のイメージを大切にする」というコンセプトがあると新聞などで知っていたけれど、確かにその通りなんで感心した。というか、よくもここまで石ノ森章太郎の絵のタッチをアニメで再現できたなあと気持ち悪くなるくらい。演出も原作に忠実にしているというわけやないんやけれど、原作をしっかりと消化している。
 というか、メインスタッフはおそらく子どもの頃から原作を読みこみ自らの血肉としているのやないかと思う。つまりそれで育った世代がメインスタッフになるような年になり、自分の血肉となっているものを再構築したというべきか。これは「ウルトラマン」やら「仮面ライダー」にもいえることなんやけれど。
 妻曰く「こうやってオタクは世代ごとに受け継がれていくのね」。ただし、妻によるとそれは縞模様なんやそうです。オタクの多い世代と少ない世代が交互にあらわれるということやね。
 ま、なんにせよ、日曜の楽しみがまた一つ増えた。しかし日曜日にやられると書き物の仕事があまり進まへんなあ。あ、ビデオにとっておいて平日に見たらええんか。そんな我慢ができるわけないな。

10月15日(月)

 さあ、敵は細菌兵器を使用してきたぞ。731部隊の亡霊が現れたか。ちゃんと対策は立てているのか厚生労働省。報復には報復だ。こうやって世界は戦いの連鎖に巻きこまれていくんやぞ。国民に犠牲者が出た時、ちゃんと説明できるのか純一郎。
 生徒から風邪をもらっただけでへろへろになってる私には、細菌兵器なんてもう怖くて怖くて。まあ我が家にいきなり白い粉の入った封筒が送りつけられてくるわけはないやろうけれど。伝染病は広がると怖いぞ。
 純一郎、韓国へ行って抗議デモを受けている場合やないぞ。今すぐアフガンへ飛べ。そして和平の使者として立ち上がるんや、純一郎。どうみても間の抜けたお坊っちゃんのブッシュJr.よりも思慮深く聡明そうなビン・ラディンの方が話せばわかりそうな気がするけどなあ。ただオマール師は正体不明の怪人という雰囲気で怖い。行け、純一郎。オマール師の正体を白日のもとにさらすのだ!
 とにかく戦いの連鎖をどこかで誰かが断ち切ってくれへんかと思う。そうやないとどこまで行くんかわからんぞ。

10月16日(火)

 週刊誌の広告なんかを見ると東京のマスコミではプロ野球の日本シリーズが盛り上がらへんで困ってるらしい。どうも大阪近鉄バファローズもヤクルトスワローズも東京では不人気らしいね。
 ところがですな、大阪ドームの前売り券は1、2試合目は完売し、行われるかどうかわからへん6、7試合目もほとんど売り切れに近い状態らしい。大阪の野球ファンはここ数年タイガースもバファローズも負けてばっかりで勝ちに飢えていた。そこへ今年、バファローズが打って打って打ちまくるおもろい野球で優勝したもんやからタイガースファンまでがにわかバファローズファンになって大騒ぎ、となったみたいやね。
 バファローズとスワローズではテレビの視聴率がとられへんのやそうやけれど、それは全国レベルというか関東の話。おそらく関西では日本シリーズの視聴率はかなり高くなると思うね。そやのに、東京中心のマスコミは関西のことなんか眼中にないらしい。
 正直な話、プロ野球はそれでええと思う。特にパシフィック・リーグは千葉ロッテマリーンズや福岡ダイエーホークスみたいに地域密着型の営業政策が定着しつつある。この際やから日本ハムファイターズも東京から離れて地方にフランチャイズをおいたらええと思うね。そろそブルーウェーブも「オリックス」を「神戸」に変えたらと思う。
 なんというか、新幹線に乗って神戸に行ったら簡単に生のイチローが見られた時は見向きもしなかった人がイチローを見るためにわざわざ大平洋を渡ってシアトルまで行ったりするのはなにかおかしいと思う。そのイチローもニューヨークではそんなに人気はないらしい。ニューヨークではもちろんメッツの新庄選手の方が人気があるそうな。
 プロ野球がフランチャイズ制をしいている以上、東京での視聴率なんかほんまはどうでもええはず。地元のチームを応援するファンにとってはそんなことは関係ない。それでええやないの。わざわざ週刊誌がそんなことを書きたてる方がおかしいと思うぞ。あんたら、暇か、といいたい。

10月17日(水)

 私はここ数年ずっと書評を書き続けてきているわけやけれど、書評とはいったいなんのためにあるんかなあと思うことが最近起こったので、ここでちょっと自分の書評に関する思いを書き散らしてみることにする。
 書評家は本のセールスマンか。いや違う。原稿料はもらうけど、それは私が評した本の版元からもらうものやない。本はたいてい自前で買う。たいてい、というのはこのサイトを開設してから作家の方たちや出版社の編集の方たちから本をいただくことが増えてきたからでありますね。ただし、そやからというていただいた本を全て書評するわけやない。いただきっぱなしになる場合が多い。ある作家の方から「謹呈本は名刺代わりです」と言われたんで、それはそれでありがたくいただいている。
 書評のページにとりあげることによってその本の売り上げがのびることもあるらしい。らしい、と書いたのは統計をとっているわけやなくbk1の前担当者の方からそういう話を聞いたことがあるというだけやから。ただし、売り上げが多少のびたからというてマージンが入るというおいしいお話はない。bk1にはブリーダーシステムというのがあって、自分のホームページで感想や書評を書いた本にリンクをはっておくとその本が売れたらバックマージンが入るという。私はこれは利用しないことにした。これをやってしまうと私は書評を本のセールスのためにやることになってしまう。書評家を名乗る以上、自分の書くものにはあまりいらない制約はつけたくない。自由にものが言えるようにしておきたい。そやのに「本が売れたら金が入る」というシステムに組み込まれてしもうたら、本を売るために自分の節を曲げることも厭わなくなるかもしれへん。それは嫌や。それは書評家としての死を意味する。本のセールスマンになってしまう。
 私はbk1で書評を書いているけれど、それは自分が面白いと思うた本をよりたくさんの人に読んでもらいたいと思うからであって、本のセールスをしたいからやない。
 それやったら、私はなんで書評の仕事を引き受け、書き続けているのか。
 それについてはまた明日書くことにする。

10月18日(木)

 とうとう風邪でダウン。午前中はぐっすり眠る。

 昨日の続きであります。
 書評というのは誰に読ませるために書くか。というと、やっぱりまだその本を読んだことのない人に向けて書くもんでしょう。まあ、もう既に読んだ人が自分の読み方と比較するとか、作家が自作の評価が気になって読むとかそういうケースもあるやろうけれど、書く側としては読んでない人に向けて書く。まだ読んでない人の方が既に読んだ人よりも圧倒的に多いやろうと、まあそない思うからね。
 そやから書評というのは基本的に「誉め」でいく。これはどんな新聞雑誌でもそう。「けなし」の書評もあるけれど、まあこれは主流やないわな。あくまで高い評価をつけた本を紹介し、その理由を書く。こんなに面白いから読みましょう、と薦めるわけです。
 そういう姿勢やから、結果としては昨日書いたように「本のセールスマン」的なことをしているようにも見えます。実態はそうやないんやけどね。
 さて、そないなると当然「誉め」の理由を書くところで書評家の値打ちが決まるわけやね。私という書評家が薦めた本は必ずしも全ての人が面白がるわけやないやろう。それでもそれを薦めた理由が納得のいくもんやったら面白く感じなかった人からも信頼されるよね。そやけど説得力のない薦め方では信頼してもらわれへん。いわば読み方を試されているわけで、ここいらが難しい。
 書評家の値打ちというものは、薦めた本とその理由で決まるというてもええぐらいやと思う。そのためには自分の価値判断の基準を一貫して守らなあかんやろう。それをはっきりさせとかへんとあかんやろう。そして何より自分の価値判断に自信を持たなあかんやろう。独りよがりにならへん客観性もいるわな。それでいて私なら私の独自性もいるわな。
 わ。こない書いてったら私は書評家の要件を満たしてないんと違うか。特に「価値判断の基準を一貫して守らなあかん」というところがぐらついているかもなあ。
 あ、本を読むのが好きとか本をたくさん読んでいるとかそういうのは書評家の要件には入りませんよ。そんなん当たり前のことやから。本を読むのが嫌いであまり本を読まへん者の書評とはいったいいかなるものか。読んでみたい気もするけどね。
 そこで浮上してくるのが「書評は人の役にたっているか」ということでありますね。それについては明後日に続きを書きます。

 明日は所用で更新はお休み。次回更新は土曜日の深夜の予定です。

10月20日(土)

 書評に関するうだうだの続きであります。書いていて滅入ってきたので今日あたりでおしまいにしよう。
 たぶん書評は人の役にはたっているんやと思いたい。そやなかったらずっと私のやってきたことは無意味なものになってしまうからね。ただ、役にたたない書評もあればたつ書評もあるとは思う。私の書評はどっちやろう。新刊書評の場合、掘り出し物というと言葉は悪いけど、あまり注目されてへん本で面白いのがあったらそれを多くの人に紹介することそれ自体に意味はあると思う。そのためにはアンテナをはりめぐらしておかんとあかん。ところが現在は出版点数は多いけどそれぞれの発行部数は少ないという状況がある。となると、新刊全てを読み尽くすというのは不可能に近い。いや、書評を専業にして生活できるんやったら特定のジャンルに限ればそれは可能かもしれへん。そやけど、私の場合やと定期的な仕事は隔月1ページの雑誌連載と1ヶ月1本のネット書店の仕事だけで、他には単発で時々他の雑誌などから原稿依頼があるくらい。これではとても専業にはなれませんな。となると本を買う段階で選別するということもしていかなあかん。そうかて、買うても読まれへん本が多いんやもん。
 つまり、書評の需要はある。そやけどそれは必ずしも多いとはいわれへん。ただもう「自分は誰かに必要とされている」と思わんとやってられへんのでありますね。「何のために書評は書かれるのか」をもっとよく考えてみたい今日この頃でございます。
 そろそろものかきとして仕事の幅を広げていきたいなと思う。ただいまその方策を模索中。さて、どないなりますことやら。

 明日は「たちよみの会」例会です。興味がおありの方はぜひご参加下さい。

 「日本芸能再発見の会」12月はあの大物映画監督が公演しはります。くわしくはこちらをご覧下さい。


てなもんや囲炉裏端 ゆっくりまったり掲示板ですお気軽にご利用下さい。

メールはこちらまで。どうぞよろしく。


過去の日記へ。

ホームページに戻る