ぼやき日記


12月1日(土)

 いよいよ明日は勤務校の「学習発表会」。劇「真田十勇士」はそれなりに楽しいものに仕上がった。というか、生徒が乗っていて、それぞれのもつ個性が発揮されているので、台本の良し悪しなんかぶっとばしてくれている。理想的ですな。

 雅子妃女児出産の報に接する。どんな子どもかもわからんのにレギュラー番組をすっとばして特番を組むというのも変な話やね。ちゃんとニュースを見てへんから小泉首相がどんな談話を残してるんかしらんけれど、どうせ「国民すべてが喜んで」てなことを言うているのでしょう。少なくとも私は別に嬉しくもなければ悲しくもないし腹もたたない。ああ、生まれはったんですかと思うのみであります。皇室のことになったらなぜか「国民すべてが喜んでいる」ことにしてしまうのはなんとかならんか。またここで指される「国民」の定義についてもはっきりさせてほしいところやね。
 国民全体奉祝ムードというまやかしを無批判に垂れ流すマスメディアにも問題はあるし、またお祝いに便乗してもうけようとするやからについてはこれを容認するというのも「国民統合の象徴」と憲法で定められている「天皇」に対する違憲行為やないかと思うんやけど、どうかな。皇室を尊重しているように見せかけてもうけようとする者に対して右翼団体は抗議しませんのですか。ようわからん。
 まあともかく、喜ばなんだら「非国民」扱いされるのだけは勘弁してほしい。頭の悪い議員や地方自治体首長がそういうことを言いそうな気がする。さて、この予言はあたっているかどうか。

 明日は「学習発表会」の打ち上げがありますんで、更新はお休みします。次回更新は月曜深夜の予定です。

12月3日(月)

 カラオケボックスという閉じた空間に職場の同僚という必ずしも価値観をひとつにしない人たちがいっしょにいれば、当然それぞれの趣味嗜好の違うテリトリーの歌がリクエストされ、うまいもへたも関係なく時間が消費されるわけで、たとえ自分と違う嗜好の歌が歌われていても、それはそういうもんやと思うてそれなりに楽しむもんやと思うておりました。
 たとえ私のあまり好きやないハードロックやらなんやらがえんえんと続き、ああ長い曲やなあと思うてもそれを口にしない節度というものが必要やと思うてます。それやから、私はなるべくその場にいるみなさんが知っている範囲でしかアニメソングもコミックソングも歌わんことにしていて、それはいっしょにいたアニソンファンのA氏もそう。彼と二人やったら何の遠慮もなく歌う「死ね死ね団の歌」でも、職場の打ち上げの二次会では歌わんというくらいの節度はある。実は彼とは「ウルトラマンガイア!」をいっしょに歌いたかったんやけれど。その前に私は「海のトリトン」を歌うたわけです。あの歌はフルコーラス歌うと最後にサビの部分をリフレインする。そのリフレインがええんですな。間奏で音程が少し変わるところが聞かせどころ。ところが、その転調してリフレインする直前で心無い声が聞こえてきた。「なんや、まだあるのん」。
 これはきいたね。歌うという行為そのものが全て虚しいものになり、酔いも何もさめ果てた。「ウルトラマンガイア!」どころやない。曲を入れる人がいてへんというので「夢想花」あたりを歌うたりもしたけど、それ以降はA氏とおしゃべりに徹する。彼とは次の機会に楽しく歌おうと話をしたりした。
 そやけどなあ、あの一言はほんまにきいたなあ。ディプパープルなんかえんえんと歌うてる人のときに「つまらん」とでかい声でいいたくなった。そこをぐっとがまん。
 こうして少数派の人間はますますかたくなに閉鎖的になっていくのであります。ああ悲しい。

 明日は所用で更新できません。次回更新は水曜の深夜の予定です。

12月5日(水)

 本日、「SFJapan vol.3 手塚治虫スペシャル」が届く。おそらく書店にも並んでることと思うけれど、未確認。今回は私から志願して「欄外コラムでもなんでもええから書かせて下さい」と強引にお仕事をいただいた。そらもう「手塚治虫スペシャル」でありますからして、ものかきのはしくれとしては一度でいいからこういう企画の本に名前をつらねたかったんでありますね。
 私の書いたのは、当代の人気作家の方たちが手塚作品をベースに書いた短編小説について、原作のあらすじや初出、メディア展開を紹介した解説文。原稿依頼の際、「原作を読んだことのない人にもわかるように」という注文がついていたんで、なるべく冷静に、私情をいれずに解説したつもり。とはいうてもやね、相手はほかならぬ手塚作品ですから、思い入れを完全に隠すことはできません。また、私の書いた文章がかなり固かったんで、編集長のOさんが若干手をいれたりもしている。その手の加わったところにはOさんの思い入れがにじみ出てたりしてて、それもまた好ましかったりしたんで、修正を完全に受け入れた。
 それにしても限られた字数で手塚作品のあらすじを紹介するなんていうのはほんまに難しかった。なにしろ現在の漫画とは違い、とにかく密度が濃いんですな。様々なアイデアが組み合わさってできているものをそうかんたんにダイジェストはできません。原稿執筆中にこの日記で少し触れたこともあるけど、とにかく読み返すたびにその大きさに圧倒される。どれだけうまくダイジェストできたかは、読者のみなさんの判断にまかせることにしましょう。
 もちろん私の解説はいわばつけたしみたいなもんで、読むべきはリスペクト作品の方です。私は事前に読んだりもしていたんやけれど、改めて読みなおすとどれも力作ぞろい。手塚作品に真っ向から取り組んだみなさんがたに敬意を表したい。この企画は手塚先生をしのぶという後ろ向きな企画やなく、「手塚治虫」をモチーフにして新たな世界を広げていくという試みなんやと実感する。つまり、書き手が自分の原点である「手塚治虫」に取り組むことにより、物語というものの面白さを再認識させていき、物語の面白さの核となるものを読み手に提出するということやないかと思う。
 1800円と少々値ははるけれど、ぜひ読んでいただきたい一冊やと思う。そして、ついでに私の書いた解説も読んでいただけたらありがたいなあ。こういう企画に参加できたことが、嬉しい。

12月6日(木)

 野村沙知代さんの逮捕を能天気に喜ぶ浅香光代さんはまあなんとおめでたい人なんやろうと思う。浅香さんが告発したんは「経歴詐称」であって「脱税」やないでしょう。「天網恢々疎にして漏らさず」と揮毫して喜ぶ姿はなんとも恥ずかしい。さらに尻馬に乗った十勝花子さんがVサインで「天罰が下った」と有頂天になり、渡部絵美さんが涙ぐむに至っては、「サッチー・ミッチー対決」とやらでしか芸能界に生き残るすべのなかった人たちの最後の舞台としか思われへん。野村沙知代さんの逮捕は、つまり彼女らの飯のタネがなくなったということなんですぞ。それをわかってるんかどうなんか。スポーツ紙を読んでいて情けなくなったぞ。まあどうでもええことやけど。
 野村監督の辞任については別項で書いたからここでは書くことはないけど、問題は後任の監督ですな。各スポーツ紙を読み比べる。「日刊スポーツ」と「サンケイスポーツ」は星野仙一前ドラゴンズ監督、「スポーツニッポン」は仰木彬前ブルーウェーブ監督、「スポーツ報知」は中村勝広元タイガース監督、「デイリースポーツ」は岡田彰布現タイガース二軍監督をフロントが最有力候補として監督就任を依頼していくと書いている。つまり、フロントは4人の人物に同時に監督就任を要請するというわけやね。で、4人とも就任には前向きやそうやから、同時に監督就任に同意するわな。なんと、阪神タイガースには同時に4人の監督が就任してしまうことになるやないか。これはすごいぞ。
 それぞれの新聞社がパイプのある本社幹部から聞いた話をそのまま記事にしてるんやろうと思うんやけど、いくらなんでも星野さんと仰木さんはなかろう。あくまでそのニュースソースの人物の願望でしかないのと違うか。こう考えるとタイガースというのは阪神電鉄本社やら大阪のスポーツ新聞社やらタイガースファンのおもちゃ以外のなにものでもないなあ。
 関西の大きなおもちゃ、阪神タイガース。私もそのおもちゃで遊ばせてもろてるわけやけど、どないなるんやら。しばらくは落ち着かん日が続くぞ。

12月7日(金)

 あまり話題になってへんみたいやけれど、「読書法」なる法律が今国会で成立したそうな。というても「本を月に1冊読まへんと罰金刑を課す」というような法律やない。「青少年の読書促進のための環境整備に関する法律」なんやそうです。
 くわしい内容はどこかのニュースのサイトでも見てもろたらええけど、「絶版本でも青少年が読みたいと思えば出版社は再版しなければならない」てな内容ではないことだけは確か。そういう内容やったら歓迎やのになあ。
 そやけど、本が好きな子どもは法律で環境整備してもらわなんでもなんとかして1冊でも多く本を読もうとするし、本なんか読まんという子どもはどんなに施設を整え蔵書を増やしても本を手にとることすらあらへんやろうね。つまり、法律には限界がある。だいたいそんなことを法律で決めるのはどうかと思う。
 手っとり早いのは携帯電話のパケット料金を大幅に値下げして子どものおこずかいを本にふりわけることができるようにするとか、そういうあたりの環境整備やないかと思う。まあそれでも本を読まへん者は読まへんし、読み過ぎる者はとにかく読む。そういうもんやということがわかってへんのやないかな。
 図書館や学校の図書室なんかの施設が充実することは大事やと思うし、法律も必要かもしれへん。そやけどそれを「読書法」てな名前で呼びならわすというのはどうにもなあ。

 いよいよ明日は「日本芸能再発見の会」12月例会。都合により更新はお休みします。次回更新は日曜深夜の予定です。

12月9日(日)

 小松崎茂さんの訃報に接する。死因は心不全。享年86。天寿を全うされたといってええやろう。
 私は世代的には絵物語の時代は知らへんし、模型少年やなかったから模型の箱絵に心をときめかせたわけでもない。少年誌のグラビアやとか、子ども向けの読み物の挿し絵に親しんだ口です。
 たとえば「宝島」は小松崎さんの挿し絵のものを読んだ。登場人物の表情や動きに躍動感があって、内容もさることながら、挿し絵だけ見て楽しんだ記憶がある。子どもではあったけど、挿し絵画家の名前をしっかりと確かめた。その中で小松崎茂や武部本一郎、梁川剛一という名前が自分の心に刻み込まれた。
 誕生日なんかに本を買うてもらう時には、同じタイトルの本があったら、自分が好きな挿し絵画家の名前がクレジットされているものを選んで買う手もろうた。そのおかげで、私は今の本のなにか漫画的な「イラスト」がついているものには心ひかれへん。原体験に小松崎さんたちの絵があるからやね。「挿し絵」は「挿し絵」であるべきで、「イラスト」であってほしくない。そういう思いがある。
 小松崎さんの凄いところは最後まで現役やったこと。「ああそんな人いたなあ」という存在やなく、ずっと描き続けていたから「そうか、もうそんな年やったんか」という存在であり得た。これはなかなかでけへんことやと思う。
 小松崎さんが描いた「未来社会」は結局は現実のものにはならへんかった。私が「未来社会」という言葉になにか輝かしい魅力を感じてしまうのは、小松崎さんの絵による刷りこみがきっとあるに違いない。その影響力は、やっぱり大きいな。
 謹んで哀悼の意を表します。

12月10日(月)

 三代目江戸家猫八師匠の訃報に接する。死因は心不全。享年80。
 こう急に冷えると、高齢の方の訃報が続き、悲しくなってくる。
 それはともかく、猫八師匠といえば、動物の物真似。私は生で接したことはないけれど、テレビやレコードで聞くその鈴虫の声なんかはほんまもんの鈴虫よりも美しいくらいやった。人間の口からそんな音がでてくることが信じられへんくらい。こういう「芸」を「いろもの」とかたづけてしまう東京の寄席には悔しさすら感じてしまうんやけどね。
 今日、新聞で訃報に接してからCDを引っぱり出してきて改めてその「芸」を聞き直す。物真似のうまさもさることながら、いろいろな物真似をつなぐ話芸の巧みさがその凄さを引き立てていることを認識させられた。ただ物真似をするだけでも凄いんやけど、それを「笑い」にもっていくわけで、そこには寄席で鍛えられた「間」がある。
 幸い、お子さんたちが、江戸家子猫、江戸家まねき猫と二人でこの「芸」を継承してはる。猫八師匠が実父の初代猫八から受け継いだものは、まだ消えてへん。近い将来、子猫さんが猫八の名をついでくれるやろう。
 ただ、猫八師匠だけの味はその死によって消えてしもうたわけで、今は残された音源や映像でその「間」をしのぶしかない。
 謹んで哀悼の意を表します。


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