ぼやき日記


5月11日(土)

 今日は大阪府の高校演劇部連盟の総会ということで、顧問となった私も生徒といっしょに参加した。大阪市内南部にある高校にまで行ってきて、今年1年の日程の確認なんかをしたわけやけど、それはまあよろし。
 体育館で行われた総会が終り、正門に向かって部員たちとともにぞろぞろと歩いていた。横手にグランドがあって、野球部が練習をしている。間近で投手が投球練習をしている。
「あ、ヤンキー座り!」。
 部員の一人がすっとんきょうな声をあげた。あのなあ、キャッチャーはみんな座って捕球するの。ほたらなにかい、キャッチャーはみんなヤンキーかい。あ、ニューヨーク・ヤンキースのキャッチャーはヤンキーかもしれんが。意味が違うがな。
 そやけどキャッチャーの座るのを見て「ヤンキー座り」と思うかね。いつでも動ける体勢を作りながら座っている鍛え上げられた下半身と、コンビニの前でふにゃふにゃと座っているだらしないのと、えらい違いやないか。
 とはいえ、キャッチャーを見て「ヤンキー座り」を連想するあたり、発想がおもろいなあ。野球をネタにした漫才のギャグに使えそう。いやいや、私は「演芸部」の顧問やなく「演劇部」の顧問やないか。漫才の台本を考えてどないすんねん。

5月12日(日)

 『聖石伝説』という台湾の映画を見にいく。3月に前売り券を買うてたんやけど、その前の映画の上映期間がのびて(『アメリ』であります)公開がのびた上にわずかな期間しか上映してくれへん。今日を逃したら来週しかない。行ける時に行っとかんとあかん。せっかく買うた前売り券が無駄になったらあかんからね。
 映画は、台湾で人気のテレビ人形劇の映画化。人形劇というても空中は飛ぶ立ち回りはあるものすごい動きのもの。CG合成もいれてるけど、それは特殊効果としてで人形が飛んだりするのはワイヤーを使うてるんやそうです。
 ストーリーは中国武侠映画そのもので、いっしょに見に行った妻曰く「中国映画そのもの」やそうな。聖なる石をめぐって、非善類という怪人やら非善類に恨みを持つ武人やら正義の武人やらが入り乱れるというストーリー。
 吹き替え版と字幕版があって、我々が見に行ったのは字幕版。これは交互に上映されていた。声の出演はただ一人。多数の登場人物を一人で演じているわけで、これは吹き替え版では楽しめない面白さかも。
 私はNHKの人形劇を見て幼少期をすごした人間やから、人形劇の動きなんかにけっこう愛着はある。それにしても、この目まぐるしさはすごかった。どうしても動きに制約がある分、細かなカット割りでカバーしてるんやけど、これが落ち着かん。多少不自然でももう少し長回しで見せてくれてもええんと違うかなとは思うた。人形には人形でないと味わえん表情や動きの妙というもんがあるわけやからね。
 台湾では多数のファンクラブがあるという超人気人形劇。確かにその楽しさの一端は見せてもろうた。できたらNHKあたりが放送権を買うてテレビ版を放送してくれへんものかな。

5月13日(月)

 家に帰って、録画しておいた相撲を見ようとビデオを巻き戻したら、この前から妻が見ていた映画が録画されてるやないか。テープを出して確かめると、間違いなく私のもの。妻にきいたら、相撲を新しいデッキで録画している間、古い方のデッキでしばらく映画を見ていたとのこと。つまり、片方のデッキで録画している最中にもう片方のデッキで再生をしたら、その再生してるものが録画されたということやね。
 アンテナのケーブルは古い方のデッキにつながってる。そして、古いデッキからケーブルで新しいデッキにアンテナをつなぎ、そのデッキからテレビにつなぐという方法をとっている。ううむ、再生画像はアンテナの同軸ケーブルを通じて新しいデッキに伝わったのですな。試しに同じ条件で新しいデッキに録画をしながら古いデッキで相撲を見てみる。新しいデッキのテープを再生したら、みごとに相撲の映像が録画されていた。それも時間前の仕切りを早送りですっとばした分も含めて。普通に再生してるのに早送りの線が見えるというのは不思議ですな。それをさらに早回ししたら、サイボーグ009が加速装置で動いているみたい。目にも止まらん速さであるぞよ。
 しかし、これやと二つのデッキで同時に録画予約をしても、両方とも同じものを録画してしまうかもしれんではないか。これではデッキが二つあるというメリットがあらへんやないの。ハブ接続するしか手がないのかなと思うたけど、試しに古いデッキで録画している前後に新しいデッキで録画をしてみる。すると、これは大丈夫。これなら同時録画も可能や。
 まあ対策としては録画予約をすることの多い新しいデッキに直接アンテナをつなぎ、見るだけに使うことの多い古いデッキへ送るという形にしたらええわけやね。
 いや、それにしても一時はあせりましたぞ。なんかここんとこビデオデッキではあれこれと手こずらされることが多いなあ。いらんことで時間を食うてしもうた。書評は明日書くぞ。そやから明日の野球は早いとこ終わらせてね、星野監督!

5月14日(火)

 新しい勤務校で、私は奨学金の受付を担当している。奨学金の申請理由を読むと、例えばリストラで保護者が職を失ったり、あるいは不景気で自営業者である保護者が学資を用意できなかったりというケースがけっこう目につく。
 この不景気だからこそ、奨学金の重要性が増していると考えざるをえない。
 ところが、現内閣は構造改革の一環として奨学金を担当する法人を切り捨てようとしている。景気を回復させているんやったらともかく、それはでけへん、学生に学資を貸与でけへんでは、筋が通らんのと違うかと思う。
 首相は就任時に「米百俵」の例えを出し教育の重要性を説いたやないか。それやのに、これはなんやねん。個人情報保護法やら有事法制を成立させることには一所懸命で、不景気の中で学資がなく進学を断念せんならん若者は救済でけへんというのはどう考えてもおかしいと感じる。
 新しい職場で初めて経験する仕事を経て、今まで見えてへんかったもんが見えてくる。仕事自体は慣れへんしやり方も理解しきってへんからなかなかしんどいんやけど、新しい経験のおかげで得るものもある。しんどいし、そやからというて休むと仕事は停滞するし、これはなかなか大変なことでありますね。それでもとにかくやるしかあらへん。提出の締切りは待ってくれへんし、そのために進学したい生徒たちに資金が貸与されへんだら、それはもっとあかん。
 今年はリハビリの年と思うてたけど、そのつもりで理学療法室にいったら、いきなり鉄アレイを持たされたような気分やね。

5月15日(水)

 携帯には着信指定登録をしたというのにまだezwebやらJ-PHONのドメインを使うた広告メールがしょっちゅうくる。最近は高利貸しの宣伝とポルノDVDの宣伝が多いけど、やっぱり中心は「出会い系」サイトの広告やね。携帯の「出会い系」サイトって、どれくらいあるんやろう。
 それらが成立するということは、「出会い」を求めている人がかなりいるということかな。コンビニで雑誌を買おうとして棚を見たら、「i-modeサイト」の雑誌がけっこう出ていてやっぱり「出会い系」サイトという言葉が表紙にでかでかと書かれている。
 確かに、単調な生活をしていると、新たな出会いを求めたくなるということはあるやろう。刺激がほしいということもあるやろう。それにしても、そこまで「出会い」を求めるということ自体、私にとっては理解し難いものがある。私の場合、人見知りするたちということもあって、自分から未知の相手と出会いたいという欲求は希薄でありますね。そんなもん、SFのコンベンションにあちこち行って合宿に常に顔を出したりしていたら、いろんな人に出会えるわけやからね。それよりも家で本を読む時間、ものを書く時間、野球を見る時間、相撲を見る時間、落語を聞く時間、クラシックを聴く時間がもっとほしい。よくわからん相手にメールを出している時間などないね。
 面白いこと、世の中にはいっぱいあると思うのになあ。そんなに「出会い」たいかなあ。もしかしたら、世間では「趣味」というものをもつという習慣がなくなりつつあって、それが主流なんやろうか。オタクが世の中を支えつつあると自負していたつもりやけど、どうもそうやないのかな。

5月16日(木)

 入退院を繰り返していた祖母がとうとう意識不明に。仕事が終わって速攻で滋賀の病院に駆けつけた。今のところ小康状態やけど、予断は許さん状況にある。現時点では「たちよみの会」は実施の方向で考えているけど、状況次第では……。落ち着かん週末になりそうや。

 夜、家に帰って新聞を開くと、柳家小さん師匠の訃報が……。享年87。落語会に一時代を築いた巨木が倒れたという感じか。
 私は、子どものころ六代目松鶴や米朝といった上方落語に触れ笑芸の魅力にひかれていったわけやけど、東京落語にはなかなか食指がのびんかった。なんでかというと、そのころにテレビで見た小さん師匠の高座があまり面白くなかったからである。ネタは、今記憶をたどってみると「笠碁」やったと思う。年をとって遊び相手がいない友だち同士が意地の張り合いをするという落語で、確かにこれは子どもにはわからんネタやったかもしれんな。
 結局、大人になるまで東京落語を積極的に聞こうとはせんかった。で、CDで文楽、志ん生、三木助、圓生といった名人の落語を聞くようになり、テレビで志ん朝や小三治の落語を知り、ついには生で談志を聞きにいったりというようになるんやけど、その中で昔面白いとは思わんかった小さん師匠の落語を聞いて、その味わいが少しわかるようになってきた。結局、生の高座に触れることはなかったけれど、確かに大看板であると得心がいった。ぼくとつな語り口からじんわりにじみ出るユーモアは、他の追随を許さんという境地に達していたと思う。
 落語家初の人間国宝になり、落語家として功成り遂げた人物やった。ぼくとつな味わいはその弟子、小三治に受け継がれ、あの談志も随所にその影響を残している。若くして大看板を背負い、東京落語界に君臨してきた名人やったけど、その遺志は十分弟子に伝わっているはず。
 謹んで、哀悼の意を表します。

5月17日(金)

 延命措置を施して生き長らえさせられている姿を見るのは辛い。そやけど、まだ心臓が動き、呼吸をしているのを止めてしまうとなると、少しでも生き続けてほしいという気持ちが沸き起こり、それはそれで辛い。そしたらどないしたらええねんといわれても、どないもこないも明確には答えられへん。矛盾というか、二律背反というか、そんな気持ちで病院を後にした。答えは、たぶん一生かかっても出んやろうと思う。

5月18日(土)

 今日は一日家にいる。祖母の様子は病院にいる家族から連絡がある。電話がなるたびにどきりとする。ちょうど手洗いにいってる時に電話がかかってきたらしいんやけど、妻から聞いた名前は全然知らん名前。たぶんセールスやろう。もし私がとっていたら怒って切っていたに違いない。夜かかってきた時にもどきりとしたけど、妻の友だちやった。ほんまに精神衛生上よろしくないね。
 無為徒食のまま一日をすごしてもしかたないんで、こういう時こそ仕事をせんとと思い、書評の原稿を書く。これがけっこうさくさく進んだ。結局、心配ごとから逃避するために仕事に集中するということになるんやろう。
 明日は「たちよみの会」。なんとか出席できそう。こんな状況ではありますが、人と会うことで気持ちをはらしたいしね。ぜひご参加下さい。

5月19日(日)

 朝、母から電話があり、祖母の容体が安定したとのこと。目をしばたかせたり開いたりもするという。膿を吸い出したりするときには苦し気な表情も見せるらしい。意識があるわけやないんやけど、生きようという意志が感じられる。大正人の強さというのか、人の生命力の強さというものを感じた。本当に、すごい。少し安心して「たちよみの会」例会に出かける。
 例によって京都SFフェスティバルの企画のアイデアに横から口をはさんだりと楽しいひととき。大いに気が晴れた。
 帰宅して相撲を見てたりすると、前任校の同僚から電話があった。なんでも修学旅行のバスレクでカラオケをするらしいんやけど、生徒の中に「巨人軍の歌」(愛称「闘魂こめて」)を歌いたいというのがいてて、あちこちで探したんやけど入手でけへん、喜多さんCD持ってへんかというようなことであります。筋金入りのタイガースファンである私が「闘魂こめて」なんか持ってるわけあらへん……と思いきや、実は持ってたりするんですねえ。ただし、古関裕而メロディを集めた「浪漫街道」(堀口博雄と東京軽音楽倶楽部)というアコースティックのCDで、「闘魂こめて」と「六甲颪」をメドレーにして演奏しているもの。編曲も一風変わったもので、あんまりバスレクのカラオケに適したもんやないけど、まあないよりましかとそれを貸してあげることにした。まあ、「闘魂こめて」を気持ちよくジャイアンツファンが歌うた直後にタイガースファンが「六甲颪」で逆襲できるという楽しみがあるからええか。CDを貸してと依頼してきた先生も実はかなり熱狂的なタイガースファン。「それ、いいですねえ」と喜んでくれた。
 で、ちょっと聴き直してみようと思うてプレイヤーにかけたら、「闘魂こめて」もさすが古関メロディ、実に元気のでるええ曲なんでありますね。ジャイアンツファンはなんでこれをもっとジャンジャカ鳴らして応援せえへんのやろ。これがジャイアンツの歌やなかったら、私も愛唱しているかもしれへんぞ。
 古関メロディというと、藍川由美さんが歌うた「古関裕而歌曲集」は私の愛聴盤のひとつなんやけど、藍川さんはなんでかこの2曲を録音してへん。「モスラの歌」まで録音してるのにねえ。藍川さんの歌唱で「六甲颪」を聴いてみたいもんです。私にとっての「六甲颪」の定番はもちろん立川清登さんが歌うたもの。あれは数ある「六甲颪」の中でも随一の歌唱ですぞ。藍川さんが録音してたら、それに匹敵するもんになってたに違いない。もっとも原点を大切にする藍川さんは「オウ、オウ、オウオウ、大阪タイガース」と歌うたりするやろうけどね。
 ジャイアンツファンはもっと「闘魂こめて」を大切にせえよ。こんな名曲を無視して「ジャイアンツ、ファイヤー」とかいう歌を球場で流す東京ドームの演出は、「伝統ある球団」の名を大いに汚していると思うんやけど、ジャイアンツファンの方はどない思うてはるんやろうね。

5月20日(月)

 テレビのニュースを見てたら、日本育英会にかわる新しい奨学金制度を検討する委員会が発足したというておる。その座長の発言では「もっと効率のよい制度にしたい」とのこと。ううむ。私の読解力ではこの発言は理解でけへん。奨学金に効率の良し悪しがあるんかい。進学をしたいけれど学資が不足してるから進学を断念するということがないように奨学金の制度はあるんでしょう。憲法で「能力に応じて等しく教育を受ける権利」が国民には保障されてるわけで、そのための奨学金やとばかり思うていた。
 例えば、学校の教師になったら返済を免除するという項目を削るというくらいのことやったら、現在の育英会の制度をいじったらすむことやろう。新たな制度を考えるということは、抜本的に変えるということになるわな。
 もしかしたら、現在行われている資格審査を廃止して、誰もが奨学金を受けられるということにするのか。そしたら審査という手間が省けて効率はようなるわな。ううむ、さすが「米百俵」内閣の諮問機関。
 でも、たぶん違うと思うな。より審査を厳ししてなるべく金を出すのを少なくするとか、返済額を多めに設定して、資金の回収を速めるとか、そういう意味での効率やないかな。それやったら改悪やないか。
 どっちにしても、奨学金制度に「効率」なんちゅう概念を持ちこむ無神経さが気に入らんな。「効率のよい奨学金制度」なんちゅうわけのわからん言い方やなしに、もっと具体的に方針は示してほしいもんです。なんか、気にいらん表現ではあるね。

 6月の「日本芸能再発見の会」例会にはベテラン漫才作家が登場! くわしくはこちらをごらん下さい。


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