ぼやき日記


5月2日(木)

 やっぱり甲子園はよろしいなあ。タイガースは負けたけど、もうそんなんどうでもようなってくる。職場のタイガースファンが集まって見にいったんやけど、わあわあ好き勝手に野次ったり応援したりして、少々肌寒うても、そんなん気にならへん。目にしみるような青い芝。カクテル光線によって浮かび上がる白球。内野席から見たんで、投手の球の速さや鋭い打球を難なくさばく内野手の動きが実感できた。ああ、甲子園は日本一の球場や!

 朝、出勤途上で小学生が集団登校するのによくでくわす。男の子が問題の出しあいをしている。「一番、シュモクザメ。二番、ジンベイザメ。三番、ホオジロザメ。さあ、どれでしょう!」。ううーむ。いったいどんな問題なんや。「そらシュモクザメやで」「そやけどなあ、シュモクザメは目が横にでてるやろ、違うで」。何が違うんやろう。海遊館にでもいったんでそれを話題にしてるんやろうか。それとも図鑑で見たものの話をしてるんやろうか。
 けっこう熱く語り合っておるのが羨ましい。彼らはコンパスが短いんで私が追い抜く形になる。彼らにつきおうてられるほど、こちらに時間の余裕はない。ほんまやったらずっと彼らの会話を楽しんでいたいところなんやけどね。実物を見たか図鑑で見たかはともかく、鮫なら鮫についてああも一生懸命に話ができるというのはええことやね。人生、そういう時期がないとあかんと思う。口を開けば生活の愚痴、というのは一番しょうもないことかもしれんなあ。
 てなことを思いつつも、頭の中ではラジオできいたCMソング「わーさびーふずびずびずびやま、やま、よし、よしわーさびーふずびずびずびやま、やま、よし、よしわーさーびーふずびずびずびやま……」というポテトチップスの歌がエンドレスで鳴り響いてたりするのであります。そこの小学生、何の話をしててもええから、歌の一つも織りまぜておっちゃんの頭で鳴り響くコマソンを止めてくれい。

5月3日(金)

 とうとうノートパソコンを買う。サブマシンとして使用するんやから、なるべく安いのをということで、安値世界一に挑戦している家電量販店に行く。一応表計算ソフトとワープロソフトが搭載されてるものということで、その中でも一番安いのを買うことにした。
 だいたいこれは勤務先でテスト作成やプリント作成に使うのを目的にしてるから、プリンタも要る。こちらもなるべく安いのを選ぶ。安かろう悪かろう、ではなく、ちゃんとしたメーカーものであります。店員さんにあれこれと質問をし、やっとこさ決定。もっと安いのを探そうというのなら、日本橋に足をのばしていろんな店で金額を見比べて……ということをしたらええというのはわかってるけど、そこまでしてほしいと思うてるわけやないから、量販店でええのや。とはいえ、梅田に進出してきた大規模小売店で調べた金額よりも相対に安いし、アフターサービスもそこそこちゃんとしてるから、安値世界一挑戦店で十分やろうと判断はしたけどね。
 で、買う品物も決まり、マウスもでかいけど安いのを選んで店員さんにいうと、さすがに嬉しそうに「では在庫を調べてきます」と店の奥にいってしまう。まあパソコンは家に持って帰って、プリンタは宅配で職場に送ってもろうて……てなことを考えてたら、店員さんが戻ってきた。「あの、実は、在庫がここに展示してあるものだけなんで……」てなことをいう。まあ、この機能でこの値段やったらよう売れるわな。そやけど私かてさんざん粘った末にこれに決めたんやから、今さらこれ以上高いのを買おうという気にはならん。そにせっかく買う決心がついたんにここでやめるとたぶん買う気自体が失せ、職場では不便さを我慢せんならんということになる。
 量販店の場合、新製品を目玉商品として大量に仕入れ、安値で売り切ってしまうという方法をとるらしい。そやから、一台別に注文したら安値やなく定価で売らんともうからん。したがって新規に取り寄せはでけへんという事情みたいですな。「それやったら展示品でよろしいわ。とにかくこれがほしいんです」。というと、店員さんは展示場所からポップを外して「それでは、デモソフトを外したりしますんで、後日とりにきていただくということになります」と説明しはじめた。私が「展示品やから、もちろん勉強してもらえますんやろうね」と当然のことをいうと、店員さんは困りきって「あの、それはちょっと……。そのかわり、マウスはサービスということにさせていただきますから……」とさらなる値引きを拒否。さすがに北関東資本の店、店頭での値切りはでけんらしい。郷に入れば郷に従うというわけにはいかんのかな。うーむ、それやったらもっと高いマウスを買うとくべきやったか。
 というわけで、けっきょくパソコンもプリンタといっしょに勤務先に配達してもらうことになった。安いとはいうてもノートパソコンやからそれなりの金額は支払うてる。それやのに帰るときも手ぶらというのはなんかもの足りんなあ。連休は新しいノートパソコンで少し遊ぶ気になってたんやけどね。連休明けに職場にパソコンが届き、即、定期テスト作成ということになるんやな。なんかおもろないぞ。

5月4日(土)

 今日読んだ「〈標準〉の哲学」という本でやっと「デファクト・スタンダード」という言葉の意味がわかり、ほっとしている。というのも、この言葉は作家の梅原克文さんがSFを批判し「サイファイ」なる言葉をSFのかわりに使うよう提唱する文章で用いられていて、何か違和感を感じていたからなんやね。
 梅原氏の主旨は「SFはヴェルヌやウェルズの作品を『デファクト・スタンダード』とすべきで、前衛的なものは人間の脳が受けつけないからそれらをSFと呼ぶとSF全体が多くの人から拒否されてしまう」というものやったと私は認識してる。そんなことをいうたらヴェルヌやウェルズの作品は当時としては新しいものやったはずやのになあ、と思うたりした。
 「デファクト・スタンダード」は消費者に広く普及したためにそれが〈標準〉となったものをいうということがわかった。しかし、小説というものは常に新しいものを生み出す作業の中から傑作が生まれてくるわけで、「デファクト・スタンダード」という発想からは新しいものも何も生まれてこんではないか。例えばテレビの時代劇は、私の子どもの頃は素浪人が自由人として市井に生きるものが主流やったと思うていたが、いつの間にか権力者が身分を隠して市井にまぎれこみ、いざという時になったら身分をばらすというようなものが主流になってしもうた。これは「水戸黄門」が高視聴率をかせいだんでそれを〈標準〉としたものが大量に作られたと見るべきやろう。その結果、テレビの時代劇はどうなったか。視聴率が取れずに次々と打ち切られ、いまや見る影もない。ところが、そういった〈標準〉に惑わされへんかったNHKの金曜時代劇のシリーズなんかは、ちゃんと残ってる。まあ、視聴率に左右されにくいNHKやったから残ってるということもあるんやけど。
 つまり、本来クリエイティヴであるべきものに「デファクト・スタンダード」なんて概念を持ちこんだらあかんということやね。今さら梅原氏の主張をどうこういうというのも時期外れという気がするけど、私個人、ながらくもやもやしていたものがやっと晴れた感じがしてやれやれであります。

5月5日(日)

 ロシア人指揮者、エフゲニー・スヴェトラーノフの訃報に接する。享年73。
 旧ソ連時代の主力指揮者の一人やった。私がクラシックに本格的にのめりこみはじめたころ、チャイコフスキーの交響曲というと、まず何をおいてもムラヴィンスキーとレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団のコンビが最高とされていた。確かに、オールタイム級のベスト録音やということは間違いない。ところが、クラシックの専門誌の場合、ムラヴィンスキーの次にくるのはカラヤンとベルリン・フィルハーモニーの演奏になるわけで、これは実は私にはしっくりこないもんやったんですな。
 いわゆるお国ものというて、作曲者の出身国ならではの演奏というのがある。ムラヴィンスキーの場合、レニングラード・フィルはいわゆるロシアロシアした演奏やないともいわれていた。洗練された味があるというわけです。それやったら、ロシアらしさを前面に打ち出した土臭いチャイコフスキーはないんか。
 それがスヴェトラーノフの演奏やったわけです。1990年代のはじめに来日したソビエト国立交響楽団の来日公演のライヴ録音がCD化されて発売され、批評家にも好評やったんで、第5番のものを買うて聴いてみたら、これが迫力があってなかなかけっこう。結局、このシリーズは全て揃えた。ソ連崩壊後もロシア国立交響楽団と改称して録音し直してるけど、私はソ連時代のものをとりたい。楽器のなり方が違うんですな。他に面白かったんはイギリスのフィルハーモニア管弦楽団を振ったホルスト「惑星」の録音。ロシア系の指揮者でこれを録音してるのはこの人だけのはず。こちらも鳴らすところは思い切りという演奏で、神秘的な解釈とは無縁の豪快な演奏であります。
 無類の暑がりで、指揮台に小型の扇風機をおいてまわしていたというエピソードの持ち主。くだんのチャイコフスキーのライヴには、小さな音でブーンと聞こえてきたりする。
 ソビエト崩壊から10年たち、ロシア世代の指揮者が続々と登場してきている中、こうやってソビエト時代に生き残ったつわものがなくなっていくわけですね。それもまた時代の流れを感じさせるなあ。
 謹んで哀悼の意を表します。

5月6日(月)

 5月1日に続いて甲子園に行ってまいりました。今日はシーズン前から前売り券を買うて満を持して行ったのに対し、前回は職場のタイガースファンの人たちと意気投合して行ったというわけで、まさかこんなに続けて甲子園に行くとは思わなんだ。
 それにしても好調タイガースの負け試合を選って見にいってるみたいですな。2回とも負けるとは思わなんだよ。まあ、あたりが悪かったとしてあきらめるしかないんやけど。今度行く時は気持ちよく六甲颪を歌いたいもんですな。
 甲子園の内野席は、ちゃんと一人分ずつ椅子がある。前回は内野に座ったんで楽に見られたけど、今日は外野席。外野席はプラスチックの板がはってあって、一人分ずつ線で区切ってあるだけ。満員やったからすしづめで動きがとられへん。8回ごろ、となりの席に座ってた男性が先に帰ったんで、これ幸いと席をずらした。ちょっと立ち上がろうとすると、ズボンのお尻がねちょっとする。くだんの男性はなんとガムをかんだまま座席に吐き捨てて帰りよったんだ。とりあえず座席には厚紙を敷いてそれ以上ガムがひっつかんようにし、アルコールをひたした使い捨ての眼鏡ふきを持ってたんで、それでズボンをふく。あらかた取れたんやけど、細かいところまではとられへん。家に帰ってからズボンを脱いでさらにむしりとる。これ以上は無理というところまで取ったんで、あとは洗濯したらどないかなるやろ。
 それにしてもマナーの悪いやっちゃ。私は30年近く前から甲子園で野球を見ており、ここ10数年は毎年足を運んでるけど、こんなんは初めてや。日本一の球場で、こういうマナーのなってない奴がとなりにいてたというだけで腹が立つ。負けた直後にメガホンをグランドに投げこんだり、負けていらいらしてけんかする、こういうマナーの悪さはこれまでも見てきてなんとかならんかと思うたが、ガムを座席に吐きすてる奴までいてるとは。
 こういう輩がタイガースファンを名乗ってるだけで腹立たしい。タイガースが勝たへんかったくらいでなんやねん。そんなんここ10年ずっと負けてばっかりやないか。勝手も負けても選手を応援するのがファンというもんと違うんか。
 ほんまに今日は情けなくなった。お前らもう二度と甲子園に来るな、と言いたい気分やね。

 明日は所用で更新ができません。次回更新は水曜深夜の予定です。

5月8日(水)

 大相撲の大至親方からメールをいただいた。検索をかけたら「大相撲小言場所」がヒットしたということで、ありがたいことです。で、大至親方からのメッセージです。
9月29日、断髪引退相撲を、両国国技館でやらせていただくことになりました。ぜひぜひ、皆さんに宣伝してください。よろしくお願いします。そうそう、当日は相撲甚句も歌いますからね。盛りだくさんの内容です。どうぞよろしくお願いします」。
 私はその日に東京に行けるかどうか難しいところやけど、親方の美声を生で聴きたいとも思うしなあ。相撲ファンのみなさん、親方の最後のまげ姿を見に行ってあげて下さいね。

 先日買うたノートパソコンが職場に届く。さっそく立ち上げて使い勝手を見てみる。メモリも大きくさくさく動く。いろいろとカスタマイズしたいのはやまやまなんやけど、それどころやない。フロッピディスクドライブがついてへんのに気がつき、以前作ったプリントを利用でけへんのは困るんで、昨日は仕事帰りにパソコンショップへ行って外づけのドライブを購入。なんやかんやと物いりでありますね。
 今日は授業の空き時間などを利用して授業のプリントと定期テスト作りを始める。もっとも、それ以外の業務もあり、何度も中断。なにしろ前年度までは定期テストなんかとは縁のない学校にいたからね、10年ぶりにテストを作るわけでなかなか勘が戻らん。ただ、前の職場でWindowsは使うていたから、たとえOSのヴァージョンがXPやろうと関係なく操作することができた。ついでにプロバイダに直接つないで契約するアプリケーションなんかは速攻でゴミ箱に放り込む。サブマシンのノートではネットはしません。したとしても今自分が契約しているプロバイダに直接つなぐ。初心者用に音声と画像で使い方を案内するアプリケーションも外してしまおうと思うたが、これがどうやってもアンインストールでけへん。Macやったらシステムフォルダにはいっているのをそのままゴミ箱に送るだけでええのに、Windowsの場合はツリーをたどったりと実に面倒臭い。これはテストが終了してからゆっくりと探そう。とにかくカスタマイズしてる場合やない。即戦力で投入です。
 とはいえ、一応オールインワンのディスクドライブがちゃんと働くかを確認するためにDVDやCDを持って行って、かけてみたりもした。こちらもちゃんと動く。いや動かなんだらその方が問題なんやけど。
 さあ、これで私も2つのOSを自在に使い分ける二刀流になりましたぞ。次はMacを新しいのに買い替えたいけど、そこまでの余裕はさすがにないなあ。物欲には限りがないわい。

5月9日(木)

 黒人霊歌のCDを聴きながらこの日記を書いている。私はこの黒人霊歌(スピリチュアルズ)というのが好きなんである。ゴスペルまでいってしまうと、ちょっとエネルギッシュ過ぎてきつい。
 黒人霊歌というのはアメリカに奴隷としてつれてこられたアフリカ黒人たちが、白人に与えられたキリスト教の神を心の支えとして歌い上げたものやから、エネルギーを爆発させるよりもそのエネルギーを自分の心のうちに抑えこみながら、それでもにじみ出てくるような切ない感じのものが本来の姿やないかなあ、なんて思うたりするんやね。先祖伝来の神でもなく音楽でもないものに自分たちの救いを託したという、そういう思いがこめられてるようなものであってほしいというのは私の先入観かな。
 今聴いているCDは「シャンテクリア」という合唱団のもので、ゴスペルとクラシックの間みたいな感じの歌唱なんやけど、私はそれよりもソロで歌われたものの方が好きやなあ。例えば、ジェシー・ノーマンが豊かな表現力で歌う「アメイジング・グレイス」なんか聴いてると胸に迫ってくるものがあるし、バーバラ・ヘンドリックスの「ジェリコの戦い」などは力強さとせつなさが表裏一体となってて実によい。
 というわけで、黒人霊歌で心を癒す毎日であります。

5月10日(金)

 世界史の授業に使おうと、検索してイスラムの紋様「アラベスク」の画像を探し出した。カラープリンタで打ち出して生徒に見せたりする。
 なかなか幾何学的な美しい紋様で、色合いも好ましかったんで、自宅のパソコンのデスクトップにはりつけてみる。おお、なかなか美しい。が、しばらく見ていると目がチラチラしてきた。
 結論。「アラベスク」はパソコンのデスクトップの壁紙には使用せん方がよい。デスクトップのアイコンが紋様にまぎれて見にくかったりする。壁紙は黒板といっしょ。目が疲れんように工夫するのは大事なことやね。


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