ぼやき日記


9月1日(日)

 久しぶりに通信販売でCDのセットを買う。六代目笑福亭松鶴の落語全集で、10枚組のもの。カタログによると音源はNHK。
 実は、5月にビクターから六代目松鶴の他、三代目桂春團治、二代目桂春蝶、三代目林家染丸、初代森乃福郎、三代目桂文我、二代目露の五郎と現役物故者あわせて7人の落語家のCDがいっぺんに出され、私はまとめて買うたところ。音源はやっぱりNHK。なにしろ上方落語に関しては米朝一門以外の録音は桂文珍がまとまって出ているくらいで非常に少ない。露の五郎やと艶笑落語がほとんどで普通のネタのCDはほとんどあらへん。そういう意味では大量の音源を残しているはずのNHKからまとまってCD化されるのはありがたかった。これは京都にある落語のCDをたくさん置いている店で購入した。
 音源が同じということは、今回の通販の松鶴全集とこのまえ買うたものとネタが重なっている場合、同一のものやという可能性が高い。幸いカタログには録音年月が記されていたんで、その前に買うたCDと突き合わせてみる。そちらのCDは、松鶴は7枚出ている。かぶっているネタはわずかに4つ。通販の場合、セットになっていてバラでは買われへんからこの程度のダブリやったら許容範囲やね。半分近くだぶってたら考えるけど。考えた上で買いそうな気もするが。
 それにしてもなあ、以前ここに書いたけど、文枝師匠の全集やとか六代目の全集が通版でしか手に入らんというのは絶対おかしいと思う。上方落語のファンはそんなに少ないんかなあ。東京の落語やったらとっかえひっかえ過去の名人の録音はCDで出てるのになあ。
 もしかしたら、東京の現役の落語家はあんまりおもろないから落語ファンは過去の名人のCDばっかり聞いてるのかな。上方落語は現役がおもろいから過去の遺産はいらんということかな。それにしたかてやっぱり落語に関しては東京偏重やなあ。落語の本でもそうやけど。
 品物が届いたんで、さっそく「らくだ」と「花色木綿」を聴く。ラジオ放送の関係で30ぷん前後におさめんなんという制約があるせいか、「らくだ」はいやに前半をあっさりとしていたけど、それはある程度あきらめんとあかんかな。こういうCDが通販のみというのは、やっぱりおかしい。一般のCD屋でも手にはいるようにせんとあかんと思うね。

9月2日(月)

 一応夏休みが終わって今日から授業再開、なんやけど、先週から補充授業で3年生には授業をしているし、今日も先週の授業の続きからということで、なにかこう、さあ新学期だ! という張り合いがないのには困ったもんですなあ。
 昨日の長野県知事選挙で田中康夫知事が再選されたけど、偶然とはいえちょうど授業で地方自治のところを教えるタイミングと重なった。これはもう生きた教材ですな。社会科を教えてると、こいう偶然が時々ある。昔中学校で講師をしていた時に世界地理を教えていたら、ソビエト連邦と東ヨーロッパという単元のところでなとソ連がなくなってしまい、そこはいったんとばしてしばらく様子を見、最後に新聞記事や週刊誌の特集号を教材にしてソ連からロシアに移る過程を解説したことがある。こういうヴィヴィッドな話題やと生徒の関心のもち方も違う。
 夏休みからそのまま授業に突入ということで生徒たちもバテ気味。ここらあたり、イキのいい話題でうまく授業を盛り上げたいところやね。
 えー、ここを読んでいる生徒のみなさん、そういうわけですんで、えー、授業盛り上げにご協力をよろしく(私は授業の時にはやたら言葉に「えー」をはさむんやそうです。自分では気がつかなんだが、大平首相は「あーうー」首相と呼ばれてたというたら「先生かて『えー』てしょっちゅう言うやん」と返されてしもうた)。

9月4日(水)

 漫画家、内山安二さんの訃報に接する。享年67。死因は大腸癌。
 そんな漫画家、知らんという人も多かろう。しかし、私にはある種の懐かしさをともなった名前やね。活躍の舞台はもっぱら学習雑誌。学研の「学習」「科学」に学習漫画を描いていた人なんです。「ひみつ」シリーズはまだ現役なんやないかな。
 学習漫画によって、私は科学的な知識の基本を学んだというても言い過ぎやなかろう。ただ学習的な内容を漫画で解説するだけではあかん、それが子どもが楽しめるものやないと漫画にする意味がない。そういう意味では、学習漫画の漫画家の方たちはかなり厳しいハードルを課せられているというてもええんやないかな。
 その中でも内山さんの漫画は、単純な描線とわかりやすい説明で特に印象に残っている。小学校時代に理科が好きやったりしたのは、学習漫画に負うところが少なくない。そういう意味では、学校の先生以上やったかもしれへん。漫画の中に登場する優しそうな先生が、内山さんのイメージにだぶってくる。
 決して無味乾燥にならずに科学の世界に私を導いてくれた、それが内山さんやったと思う。学習漫画がなかったら、私はきっと理科について関心のない子どもになっていたことやろう。
 謹んで哀悼の意を表します。

9月5日(木)

 今日、「哲学入門」という授業で映画「フィールド・オブ・ドリームス」を生徒に見せた。どのような感想が返ってくるかは来週を待たねばならんのやけど、みんな食い入るように画面を見つめていたので、映画の選択はまあよかったかなあと思う。
 私は封切りの時に劇場で見て以来やから、およそ10年ぶりくらいに見ることになるか。久しぶりに見たら、封切りの時には気づかなかったことがわかって面白かった。ねらいとしては「主人公が自分の生きるためのよりどころとしてはたから見たら非常識とも思えることに情熱を注ぐ」というあたりをどのようにとらえるか、というところやったんやけど、私もいっしょに見ていて少し違う視点で授業を展開できそうやと気がついた。
 この映画はひたすらプラグマティズム的なんですね。ものの本質を証明するには実際に動かしてみることが必要やということをしつこく繰り返してみせている。「それを作れば『彼』はやってくる」と何者かが主人公にささやけば、主人公はそれを証明するために作ってみせる。とにかく行動することが第一義にあるんやね。
 一度だけ見た映画、一度だけ読んだ本を、歳月を経てから再度見てみる読んでみるということの面白さを実感させられた。
 ところで、実は最初は「フィールド・オブ・ドリームス」やなしに「あしたのジョー2」を見せるつもりをしてたんです。ところが、何件かビデオ店をまわったけど、いずれもレンタル中。そんに人気が根強いんかと感心したんやけど、おそらく週刊誌「ジョー&飛雄馬」を読んで、一度アニメの方も見てようという人が多いのと違うやろうか。いやもう「あしたのジョー」が入手でけんとなった時に、次候補を決めてへんかったから、作品選定には苦労したわい。

9月6日(金)

 今日は私の誕生日。わざわざメールを下さった方もいまして、ありがたいことです。「私は誰でしょう」のところも年齢を書き換えておいた。
 そうです。今日から私は40歳。不惑であります。人間死ぬまで惑うてばかりと思うけど、これはまあ孔子の理想でありますからね。実際、孔子もかなりええ年になってから失敗してはくよくよしたりしている。
 誰もが思うことなんやろうけれど、自分が子どもの時、40歳の父親はものすごく大人に見えたし、学生時代、40歳の先生はむやみにおっさんに思えた。ところが、自分自身が40歳になってみると、たしかにおっさんではあるんやけど、自分が子どもの頃に感じていた「大人」像とはかなり違うように思える。落ち着いてもいてへんし、なんか頼りない。だいたい誕生日の祝いにと妻が買うてくれたおもちゃで二人して遊びちゃちゃくってるというあたり、自分でも「大人」であるという自覚にはなはだ欠けているように思う。まあ、パチンコや麻雀、競馬競輪だけが大人の遊びやなし。大人のおもちゃというとなんかヤラシイ響きがありますが。
 ちなみに、妻がくれたおもちゃは対象年齢8歳以上。40歳かて8歳以上には違いないから、それで我々が遊んでたってなんの不都合もあらへんよねえ。ねえそうでしょ。

9月7日(土)

 昨日のこと。職員室で隣席の国語の先生が溜め息をついている。
 聞いたら、高一の夏休みの宿題で「読書カード」を作らせたという。読書感想文よりもまずどんな読書傾向があるかをつかみたかったらしい。多かったのが、「だからあなたも生きぬいて」あたりの人生応援本やそうです。「もものかんづめ」みたいなエッセイもけっこうあるとか。もちろん「ハリー・ポッターと賢者の石」も上位にきているそうな。
「喜多先生、『ダレン・シャン』って、ごぞんじ?」。
 読んだことはないけど、むろんタイトルは知ってる。
「『ハリー・ポッター』のヒットで続いて出た児童向けの翻訳ファンタジーですよ」。
 児童向けか、とまた溜め息。どないしたんかと聞く。
「偕成社とかポプラ社の『ヘレン・ケラー』『ベートーベン』『ああ無情』を今さら読んでくるのよ。子どもの頃に買ってもらったのを引っぱり出したのかしらねえ」。
 国語の先生としたら、高校生なんやからヤングアダルトでもええから小説を読んでカードに書いてほしかった、ということやそうです。
 まあ、その気持ちはわかる。そやけど本を読まん生徒はとことん読まんからなあ。読む生徒はまた徹底的に読む。そんなもん、私らの時代から変わってへん。後ろからベテランの数学の先生が「ぼくかて本は読まんよ。僕が読むのはコンピューターのソフトの解説の本ばっかりや」と助け舟を出してはったけど。
「今の生徒は〈小説〉を読まへんのよねえ……」。
 国語の先生はまたまた溜め息をつくのでありました。
 私はその場で反論はしてへんけどねえ、それにしても健気やないですか。国語の宿題やから、真面目な本を読まんならんとがんばって偉人伝を引っ張り出してきたんやろうなあ。「ああ無情」をリライト版でも読もうというだけ立派やとさえ思うね。私が高一の時に同様の宿題が出ていたら、さて何を書いていたかね。「幼年期の終り」やとか「宇宙船ビーグル号」やとか、当時青背で復刊されはじめていたSF文庫の名前をあげていたかなあ。そんなん書いてたら、国語の先生は「まともな〈小説〉を読まへんのやなあ、今の生徒は……」てなことを言うてはったかもしれへんね。

9月8日(日)

 プロ野球の大阪近鉄バファローズが来シーズンから「近鉄」の企業名を外して「大阪バファローズ」とするという。横浜ベイスターズに続いてこういった形で地域に密着した球団作りを目指すチームが出てきたことは喜ばしいね。ほんまやったらわがタイガースがかつて名乗っていた「大阪タイガース」に戻してほしかったんやけど、タイガースの経営陣によると「阪神」は「阪神電鉄」の「阪神」やなく大阪と神戸を結ぶ地域をさしてるらしい。ほんまかいな。もっともタイガースファンの分布のぐあいを考えたら「近畿タイガース」くらいがちょうどええんかもしれへんね。
 ところが、近鉄が企業名を外すと決めたとたん、スポーツ紙は「近鉄身売りか?」と、まるで近鉄が球団そのものを手放すような報道をする。
 ちょっと待てや、といいたい。日本ハムファイターズが札幌に球団を移転することになった時に「チーム名から企業の名を外すべきだ」てなことを書いた新聞がそういうことを書いてはいかんでしょう。読売ジャイアンツがチーム名から「東京」を外したことにたいして批判でけへんのは情けないと思うてたけど、この調子やったら、他の球団が企業名を外しにくくなるやないですか。千葉ロッテマリーンズにしても福岡ダイエーホークスにしても、市民球団を目指して企業名を外したら同じことをいわれるのは必至やからね。
 スポーツ紙に、プロスポーツのあり方に対する定見がないのは薄々感じてはいたけど、ここは近鉄の英断をたたえ、読売の行為を批判すべきところでしょう。この調子やとそのうちにサッカーJリーグは企業名をつけよとか言い出しかねんな。
 別に近鉄が株を大阪の他の企業に売却し経営から手をひいたかてかまへんやん。そうなっても球団名は「大阪バファローズ」のままやし。これが例えば「南海部品バファローズ」やら「ピップフジモトバファローズ」になったら「ファン不在」てなことをいうて騒ぐに決まってるやろうね。球団は企業のものやない。ファンのもんやということを考えたら、どこが経営権を持っていても、ファンはチームとして地元に存続してくれることを望むはず。そして、できたらその時にチーム名がコロコロと変わるんやなしに常に「大阪バファローズ」であってほしいと思うやろう。それやからこそ「近鉄」という企業名が外れることには大きな意味がある。ええかげんしょうもない騒ぎ方をするのはやめてほしいもんです。スポーツ新聞の記者にしたら、一面にもってきても新聞の販売部数が増えへんチームのファンなんかどうでもええんかもしれへんけどね。

9月9日(月)

 解体中の中座で火災。いくらもう既に閉館し、いずれ跡形もなくなることはわかっていたというても、あの中座が丸焼けになってしもうたというのはショッキングな事件であることにかわりはない。しかも法善寺界隈の老舗も巻き添えにしたということらしいから、これもショッキング。
 私は京都生まれの京都育ちで、中座よりも南座になじみがあるという境遇の人間ではある。しかも、法善寺横丁には縁もゆかりもない。それやのに、なんでこうショックを受けるのか。
 それは、やっぱり道頓堀というのが上方文化の象徴やからなんやろうね。江戸時代から上方文化を支えてきた地域という意識があるから、その象徴が焼けてしまうということに対してもショックを受けてしまうのやろう。
 つまり、中座そのものの火災というよりは、「中座焼失」という言葉の響きにショックを受けたということやねんな。例えばこれが「なんばグランド花月焼失」やったら、これほどのショックはなかったと思う。確かに吉本興業の中核となる劇場ではあっても、上方文化の象徴にはなり得てへんと思うからね。
 「中座」「角座」「浪花座」……劇場はなくなったけど、その名前のもつ響きは決して失われてへんのやなあと、今回の火災で感じた。文化というのはつまり、そういうもんなんやろうね。

9月10日(火)

 東京に続き大阪でも教師の勤務評定を取り入れるということで、今日の新聞にも報道がなされていた。私は教員は聖職やというつもりはない。教職もまた職業の一つであるということは間違いない。教え方がうまい教師もいてればあまりうまくない教師がいるのも事実ではある。ただ、教師と生徒の関係でいえば相性というものもあるし、ある教師の教え方がはまる生徒もいてればはまらん生徒もいてる。進学指導が中心の学校もあれば、生活指導が中心の学校もある。特に大阪府の場合、特色ある学校作りということで総合学科や単位制、普通科総合選択制など学校ごとに指導のあり方もかなり違うはず。となると、教師によってはある学校なら力が発揮できるけど、ある学校では力が発揮でけへんということもあるやろう。基本的には自己評価と校長の裁量ということになるんやろうけど、それでどこまで信頼性の高い評定ができるものやら。だいたい教育というものは、即効性のあるもんやないと思う。在学中には実らんかった指導が、卒業後に開花するということもある。特に障害児教育の場合は指導の成果はなかなか見えにくいもんや。
 私なんか、今年は久しぶりに高校で授業をするというこもあって、かつて定時制の高校や中学校で講師をしていた時のような感じの授業がでけてへん。9年間、障害児教育にたずさわってきたことが、一般の高校生に対して生かし切れているかどうか自分でもわからん。生徒に聞いてみんとわからん。私の授業はこれでええんか? 今自己評価をさせたら、私の場合ものすごく辛くなってしまいそうやなあ。
 そういう状況も考慮に入れた勤務評定がなされるんかどうか。気になることはいっぱいある。できたら撤回してほしいんやけどね。
 正直なところ、東京に追随する形で導入するというのも気に入らん。現府知事はなんか東京がやったことを真似るような傾向があるように思う。東京のやってることなんか絶対真似してたまるかという気概はないんか、ふうちゃん。ないんやろうなあ。だいたいふうちゃん関西人ですらないもんなあ。


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