ぼやき日記


3月1日(火)

 奈良東大寺二月堂のお水取りが始まったというニュースをラジオで聞く。3月やねんなあ。近畿地方以外の人にはなんのことやらわからんかもしれんけれど、お水取りという行事をやっている2週間、近畿ではいわゆる寒の戻りという気候になる。お水取りでおたいまつを燃やしている間に、ぐっと冷え込むんですな。で、お水取りが終ると、一気に春めいてくる。お水取りの終る時期というのが、だいたい彼岸の入りに重なる。全国的にいわれる「熱さ寒さも彼岸まで」が、近畿では「お水取りが終ると春になる」ということになるのです。
 というわけで、あと2週間もしたら本格的な春がくるんやなあ。

 最寄り駅前にチェーンの喫茶店が開店した。私がまだ今の家に越してきてからそんなにたってへん。そやのに、焼肉屋がチェーンの居酒屋に変わったり、料亭が更地になったりしているのを見た。この喫茶店も、その前は畳屋やった。いかにもベテランの畳職人さんが仕事をしているのを何度も見かけた。畳屋の並びにはかなりお年を召したお爺ちゃんが店番をしている和菓子屋さんやとか、二世代でやっている小さな本屋さんやとか、あまりお客が入ってるのを見かけたことがないハンコ屋さんやとか、昔からこの地にあるんやろうなあという感じの店と、コンビニやらコンタクトレンズも売っている眼科やら、最近できたばっかりという感じの店が交互に並んでいる。畳屋は喫茶店に変わり、古くからあるらしい店がひとつ姿を消したことになる。
 和菓子屋さんでは、何度か桜餅やら月見団子やらおはぎやらを買うた。あっさりした口当たりでおいしい和菓子屋さんですわ。こういうお店が時代の波に押されて消えていくとしたら、新参者の私であっても寂しさを感じるんやなあ。たまたまこの土地にマンションができて、そこに引っ越してきたばかりの私に、土地に対する愛着があるわけはない。そやのに、こういう形で風景が変わると無性に寂しいのはなんでやろうね。やっぱり、チェーン店という画一化された看板のせいやろうか。どこにでもある風景に変えるなよ。そんな風にどこかで思うんやろうなあ。
 春が近いというのに、新しく光る店の構えがなんか寒々しいのはまだまだ冷たい風のせいだけやないんやろうね。

3月2日(水)

大阪歴史博物館
 役所に行かなならん用事もあったんで、期末試験期間中で担当の授業もないから、休暇をとった。どうせなら、せっかくタダ券をもろうたんで、大阪歴史博物館でやっている「阪神タイガース展」も見に行こう。というわけで、やってきました法円坂。平日の午後やから、お客さんも比較的少ない。写真は博物館と「阪神タイガース展」の看板であります。
 展示自体は、昔の選手の遺族の所持していた貴重な遺品なども多く、充実した内容。ファンにとってはこたえられん。特に私は今年「なにわ研究」という授業でタイガースの歴史を簡単にまとめて教材化したということもあって、調べていたものの実物を見ることができたりしてとても楽しかった。
 ただ、年配の夫婦ものの中には、旦那が知ったかぶりして奥さんに説明したりしてる人もいたりして、耳障りで困る。館内のビデオで「1992年・八木の幻のホームラン」の場面を映し出してると、私の横で60くらいのおっさんがいかにも自分は知っているかのように説明するんやな。その場面では当時の中村勝広監督が平光審判に必死で抗議していたんやけど、それを見てこう言うんや。
「あの審判な、まだ(審判を)やっとるねん」。
 やってへん! 平光さんは審判を引退して、今は東京のラジオ局で野球解説をしてるがな。私は思わず横から訂正を入れてやろうかと思うたけど、無用のトラブルは避けたいから、黙ってた。ああいう半可通に限って(私が通とはいわん。ただ、知ったかぶりはしたくないだけです)、間違いを正されると恥をかかされたと決めつけてくるやろうからな。しかしなあ、例えば近くにスポーツ新聞の記者がいてるかもしれんとか考えたりはせんのやろうか。
 いてますわ、どんな展覧会にも。あ、前に日記で書いたけど、「平成紅梅亭」の公開録画で知ったかぶりしてたじいさんがいたなあ。この前も今日も、奥さんに教えてやってるというのはいっしょやな。奥さん相手に自分は物を知っていると自慢したがっているところが、見るに耐えんところなんかもな。ほんまに知っている人は、自分からそれを吹聴したりはしないものなんです。
「わあお父さん、この審判に暴行してる島野さんて、あの島野さん?」と素朴な質問をぶつけているおばちゃんには、逆に好感を覚えた。知らんことを知らんと言える。その方が知ったかぶりするよりずっと偉い。そう思いません?

3月3日(木)

 今はたいていのプロ野球チームの応援団が、それぞれの選手のヒッティング・マーチを作って、その選手が打席にはいるとトランペットでそれを鳴らす。ファンはその歌詞を覚えてトランペットに合わせて歌い、「かっとばーせー、かーねもと」と声を揃えて声援する。このスタイルはもう20年くらい続いているから、ほぼ定着しているというてええ。
 各球団別にヒッティングマーチのCDも出ている。私の場合はタイガースファンなもんで、1992年から2003年まで毎年買うては、新人選手や移籍選手のヒッティングマーチを覚えて甲子園で歌うていた。
 ところが、2004年版は発売されなんだ。なんでかというと、作詞作曲に「中虎連合会」という応援団の名前が明記されていたからやねんな。この応援団は、甲子園や東京ドームで球場の職員を脅したりしたことから暴力団とつながりがあることが発覚して、阪神球団がそんな応援団の名前が明記されるようなものには発売許可は出されへんとしたからやった。
 ところがですな、その応援団の名前が明記された曲の中に、実はかつては作詞作曲者不詳やったものを勝手に自分たちの作ったものとして著作権登録したものが含まれてたということが発覚したわけですわ。私が買うたCDの印税が暴力団の資金源になっておったということになる。なんか悔しいね。
 他の応援団は、今後「中虎連合会」がらみのヒッティングマーチは使用せず、新たに歌詞や曲を作ると発表している。この中には今岡選手や金本選手などのファンに親しまれたものが多く含まれている。その曲と選手のイメージが重ね合わさっていたのに、ざんねんなことではあるね。
 これはABCラジオ道上洋三さんも言うてはったけど、それやったらいっそのことタイガースの応援団はトランペットの応援を一切やめることにしたらどないだ。そしたら、CD化による利権を当てこんで悪用されるということもないやろうし、選手のプレーに集中して応援できるし、なによりも打球の「かきーん」という爽快な音などを楽しむことができる。
 もう20年も続いて定着した応援スタイルやし、ストレス解消に来てるようなファンには物足りんかもしれんけれど、もともと全体で一斉に応援するというのは1975年広島東洋カープ初優勝時の「コウジ・コール」(山本浩司外野手に対する応援)から始まったもので、それ以前は鐘や太鼓を鳴らすだけのつつましいものやったわけやからね。その昔に戻るだけのこっちゃ。スタンドからおもろいヤジが飛んで選手が苦笑したり、という懐かしい風景が蘇るかもしれんしな。
 その分、甲子園全体のファンが一体化するという楽しみは減るかもしれんけど、それはもうただ名前をコールして「ぱぱぱん、いまおか。ぱぱぱん、いまおか」とメガホンをうち鳴らすだけで十分やろう。ジェット風船飛ばしかてあるんやしね。
 とにかく、こういう機会でもなかったら応援スタイルをメジャーリーグみたいに変えるということもでけへんやろう。今回の事件をええ方に向けるという発想が応援団にあったらなあと勝手に願っております。

3月6日(日)

 4日の金曜日、勤務校の卒業式を終えて、午後から休暇をとり、新大阪の駅に向かう。
押井守さん
 今年も「日本SF大賞」の贈賞式とパーティーに押し掛けるための東京行きでありますね。
 前日から東京は雪ということなんで、防寒対策もしっかりしていきました。のぞみの車中から品川あたりの町並みを見下ろしていると、屋根に積もった雪がとけんと残っている。東京駅から中央線に乗り換えて、予約したビジネステルのあるお茶の水につくと、歩道のところにもとけんてへん雪がかためてある。
 ホテルで少し休んでから、タクシーで東京會館へ。大薮春彦賞の雫井脩介さんの表彰が終り、続いては日本SF大賞。今年の大賞は「イノセンス」の監督、押井守さん。選評を辻真先さんがたっぷり時間をとってやったはったりしたというようなこともあり、表彰式は例年より時間がかかったかな。特別賞の矢野徹さんへのトロフィーは奥様が受け取ってはった。
 SF新人賞は照下土竜さん。なんと22歳の若さ。まだまだ完成度は高くないけれど、これを機会にのびていってほしいと、選評を北野勇作さんが言うてはった。ただ、どうしても手放しでほめるということはでけなんだから、言葉を選ぶのに苦労してはった。式が終ったあと、お疲れさまをいいに北野さんのところに行ったけど、つい冷やかすようなことを言うてしもうた。ごめんね。
 そのあとは、歴代SF新人賞作家のみなさんとおしゃべりをしたり、堀晃さんをはじめとする先輩方にごあいさつをしたり。
 徳間書店主催の二次会に顔を出す。柴田よしきさんと久々にお会いしたり、倉阪鬼一郎さんと相撲の話をしたり、井上剛さんの労働の話を聞いたり、いろいろと会話が弾んだ。
 と、店の入り口付近でざわざわとひとだかりがしている。なんと北野さんが酔いつぶれて倒れた拍子に眼鏡のフレームでこめかみを切り、顔面流血状態やないですか。救急車が来て救急隊の人たちが血圧を計ったり話しかけたりしている。意識ははっきりしているらしく、隊員の方に話しかけられたら「大丈夫です」というような口の動きで手をあげたり下げたりしていたから安静にして酔いがさめたらなんとかなるのやろうけど、心配。実は帰宅したあと北野さんにメールを送ったら、無事であったというお返事をいただいたんで、今はほっとしております。
 散会直前に山岸真さんから携帯電話に電話があり、待ち合わせて今年も好例の徹夜カラオケに突入。今年のメンバーは私、山岸さんと北原尚彦さん。大賞の夜の徹夜カラオケを最初にやった時のメンバーやねんな。原点に帰って、とにかくもうこれで十分というくらい歌いまくった。ああ、きもちよかった。
 ホテルに戻って仮眠し、ぎりぎりの時間にチェックアウト。今年も結局東京観光はなし。妻へのみやげは例年舟和のいもようかんなんですが、ラジオ番組で「東京ばな奈」がおいしいおいしいとせんど聞かされていた妻が「一度食べたい」というんで、今年はそれにした。帰宅後、食した妻がまず一言。「来年はいもようかんね」。そやから私は毎年いもようかんを買うて帰ってるんやないですか。
 というわけで、今年も初対面の方とごあいさつをしたり、日頃ごぶさたの方とごあいさつをしたりできて、よかったですね。大阪にいてると、業界関係者と会うことが少ないだけに、こういう機会にこそ交流をすすめておきたい。その目的は今年も果たすことができてやれやれであります。

3月7日(月)

 木川かえるさんの訃報に接する。享年81。死因は腎不全。
 肩書きは「ジャズ漫画家」でありました。舞台の上に模造紙をはったついたてを立て、グレン・ミラー・オーケストラの「イン・ザ・ムード」に合わせて、筆でさらさらと漫画を書く。お客さんを舞台に上げて筆で名前を書いてもらい、その文字を利用して一枚の絵にさらりさらさらと仕立て上げる。なんでも進駐軍キャンプでショーのアルバイトをしてからずっと続けていた芸やそうな。
 昨年、NHKの上方演芸ホールに出演したのを録画しておいた。まだまだお元気で、得意の芸を披露してはっただけに、今回の訃報は驚きではある。その時のトークでは、なんと手塚治虫さんがまだ大阪にいた時に、酒井七馬さんのグループでいっしょに漫画を描いたりしていたと言うたはった。
 芸人であり、漫画家である。東京にはマンガ太郎さんがいてはるけど、おそらく現役ではこのお二人くらいと違うたか。演芸の世界にとっても、そして漫画の世界にとっても貴重な証人というべき人やったから、著作「かえるも昭和をふりかえる」だけやなしに、もっともっと多くの証言を残しておいてほしかった。
 漫才や落語だけでは寄席は成り立たん。「諸芸」や「いろもの」と呼ばれたりする、こういう独特の芸が間に入ってこそ、笑いにバリエーションが生まれる。しかも、こういう芸はその人一代のものやったりするからね。後継者が育ちにくいタイプの芸ですわ。
 最近、ピン芸のブームといわれてはいるけど、一人コントが主で、こういう特別な技能が必要とされる芸人さんにはスポットがあたっておらん。特に大阪では寄席そのものがないからね。劇場スタイルの演芸場はあるけど、そういうサイズではこういう芸は映えんのですよ。
 また一人、その人一代という芸を持った人がいなくなった。
 謹んで哀悼の意を表します。

3月8日(火)

 昨日は、先日録画した映画「三匹の侍」を頭のところだけ見ようとつけたら、おもろいおもろい。つい全部見てしまい、本が読めませんでした。
 今日は、昼に録画した野球のオープン戦中継をとばしとばし見ようとつけたら、1点を争う好ゲームでついとばさずしっかり見てしまい、本が読めませんでした。
 なるほど。世の中の本を読まん人は、こうやって時間を食うてしまうんやなあ。
 そやけど、やっぱり本を読まんと頭がむずむずし、読みたい読みたいという気にもなる。
 世の中の本を読まん人は、別に読みたい読みたいという気にはならんのやろうなあ。なんでやろうなあ。
 なんで「活字中毒」になってしもうたんかなあ。なんで「活字中毒」になる人とならん人がいてるんかなあ。
 実はここのところ、ずっとそんなことばかり考えているのです。
 ところで、みなさんは夜寝る時、布団に入ってから寝つくまで何を考えていますか。私は中学生くらいのころから自分を主人公にした陳腐なストーリーを頭の中で毎日作っているのです。それは単純な冒険ものであったり、べたべたに甘いラブストーリーであったり。ただし、本題にはいる前に設定を考えているうちに寝入ってしまうんです。
 世の中の他の人は布団に入って寝つくまで、どんなことを考えてるんやろうなあ。夢を見るというのは、人にとってどんな意味があるんやろうなあ。
 実はここのところ、ずっとそんなことばかり考えているのです。
 そんなことばかり考えてんと、もっと現実的で役にたつことを考えたらええのにね。運がよかったら、いつか役にたつかもしれんぞ。ふふふ。

3月9日(水)

結膜下出血
 先週末に雪の残る寒い東京に行き、徹夜でカラオケをして、ホテルで仮眠し新幹線のぞみ号で居眠りし、京都で降りて所用をすませ、夕刻に帰宅したら、妻が私の目を見て言う。
「鏡見た? 目ぇ、赤いよ」
 徹夜カラオケなんぞしたから充血してるんかなあと鏡を見たら、左に描いた絵みたいに右目の白眼に血の塊みたいなもんが浮いとるやないですか。これは目です。小さな子どもが考案した新怪獣のデザインではありません。ええ、私が描いたんです。描いた私が言うんやから間違いない。この絵は私の右です。ほら、という字まで充血してるでしょう。
 充血くらいしばらくしたら治るわいとたかをくくってたけど、今朝になっても白眼には血が浮いてる。いやいや、少しばかり拡散したかもしれん。もしかして難病の前触れかもしれん。
 仕事の帰りに眼科に寄る。看護師さん(?)が「検査しますね」という何の検査かいな。目に空気を吹きつけて眼圧をはかったり、覗き穴から景色の写真を見せたりする。そのあと、視力検査までされた。私はが充血してるから眼科に行ったんであって、眼鏡を作ってもらいに行ったわけやない。
 やっとお医者の先生のところに呼ばれた。眼球に光を当てたり問診したりした結果、結膜下出血という症状やと言われた。結膜下の毛細管が破れて出血したもので、急に寒い所に行って夜更かししたり、酒を飲み過ぎたりしたらなるものらしい。うんそうそう、雪の東京に行って徹夜でカラオケをしてふんだら酒を飲んだわい。思い当たることがあり過ぎですわ。
 で、結論は、「別に心配はありません。薬もいりません。2〜3週間で自然に戻りますよ」やそうです。それはよかった。心配せんでええんや。
 診察が終って、診察料の支払いで驚いた。2240円も請求された。初診料はかかるからそれこそれの値段にはなるなと思うてたけど、2000円を超えるやなんて。きっとあの視力検査のお代も入ってるに違いない。安心代と思うてあきらめるしかないか。それにしても高い安心代じゃ。
 というわけで、しばらくはは充血したままでありますね。朝に洗顔するたびに血の浮いた眼球を見ることになるのだなあ。東京で徹夜カラオケして風邪をひいたこともあるけど、今年は大事なく帰れたと安心してたら赤目ですかい。やれやれ。

3月10日(木)

 桂文紅師匠の訃報に接する。享年71。文紅師匠の芸についてはこちらに書いたのがありますので、ご一読を。これで文團治系の落語家の系譜が絶えたことになる。大きな芸能事務所に所属してるわけやないけど、独自の活動を続けて、なんとも味わいのある落語を聞かせてくれただけに、こういう落語家さんがいなくなるというのは残念やなあ。あれから聞く機会がなかっただけに、よけいに残念。
 謹んで哀悼の意を表します。

 妻が風邪をひいたらしく、熱っぽい。私ものどがいがらっぽくなってきた。熱はないと思う。計ってほんまに発熱してたらよけいにしんどなるから、あんまり計りたくないなあ。今日は早く寝るぞ。
 自分の体調のバロメーターとして、本を読む気になれるかどうかというのがある。今は本を開くのもなんとなくおっくう。それだけしんどいということやねんな。そやけど、やっぱり本を読まんと落ち着かん。どっちやねんな。とまあ、それくらいだるいんだ。
 あ、お風呂わいたみたい。ほな、入ってきまっさ。お休みやす。


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