ぼやき日記


3月11日(水)

 埼玉県立所沢高校で「卒業式ボイコット」事件があったそうな。
 3月10日付の「日刊スポーツ」によると、その高校の卒業式に出席した生徒はわずか20人。学年代表ひとりに卒業証書を手渡し、わずか15分で卒業式は終わったという。
 他の生徒はどうしていたかというと、式のあとに行われた生徒会主催の「卒業記念祭」に参加しているのですね。これは君が代斉唱や卒業証書授与式をなくして卒業生と在校生のメッセージ交換や合唱、思い出のスライド上映で卒業生の門出を祝うというもの。生徒会は校長に記念祭に協力してほしいと呼びかけたらしい。ところが、校長はそれを拒否。「日の丸掲揚、君が代斉唱の厳粛な卒業式を行う。卒業式は単なる生徒会の活動。卒業式の後でやるように」とのたまうたそうな。
 そら、生徒は怒るわな。かくして卒業式はボイコット、とこうなったわけであります。
 いやいや、やってくれるではないの。入学式や卒業式に「日の丸掲揚、君が代斉唱」を行うのは文部省の作った学習指導要領に基づくものだとして、「国旗や国歌を敬うことにより国際性を身につけさせるため」に校長が教職員たちの反対を押し切って実施するというのはたいていの学校で見られる。私は現任校の前に3つの学校で講師をしているが、どこでもこの論議はあった。
 生徒の個性を尊重するとか自主性を育てるとか言いながら、実体はまあ、こういうものだ。生徒が自主的に行おうとするものを拒否して文部省や教育委員会の顔色ばかりうかがっているからこういうことになる。また、教職員の中にもその予備軍はいて、こちらは校長の顔色ばかりうかがい、使い走りをやらされていてもてんと恥じないでいる。こういう輩は生徒が教師の顔色をうかがいその意向に従うのを当然と思っているかのようにふるまうのである。
 かくして生徒たちはナイフを持ち、同級生をいじめ、登校を拒否するのだ。
 いやしかし、この記事は共同通信の配信であるからして、全国に学校名がとどろいたことになる。この校長に対し教育委員会はどういう対応をするのかな。「全国に恥をさらした」と叱責するのか。せっかく文部省や教育委員会に忠誠を誓いながらそれを押し通したために非難されるというあほらしいことになるわけだ。お気の毒なことである。
 それとも「よく卒業式の厳粛性を保った」とほめるのか。だとしたら、学校というのは教育の場ではない。どちらなのかなあ。知りたいものです。

3月12日(木)

 私事で恐縮だが、おっと、日記なんてものは私事に決まっているではないか。
 私の新作童話「おおごえこぞう」が読み聞かせ童話雑誌「おひさま」7月号(1998年6月1日発売)に掲載の運びとなりました。第1回「おひさま大賞」優秀賞を受賞した「おどりじいさん」が1996年の9月号掲載であったから、なんと1年10ケ月ぶりの受賞後第1作掲載となる。
 だいたいこれまで「教員・書評家・童話作家」などと名乗りながら童話の方はおせじにも「作家」といえるような態をなしてはいなかったのだ。もう少しコンスタントに発表されなければ「童話作家」とはいえません。それでも、今回の掲載で、少しはそういう名乗りに実体がともないつつあると、不遜にも言い切ってしまいましょう。
 でもね、1年以上も何もしてなかったわけではないのだよ。受賞後はいくつか作品を書いて送っていたのだ。しかし、担当の方が別の雑誌に移ったりしてうまく編集部との意志の疎通がとれなかったこともあり、次々に作品を書いてもその扱いがどうなっているのかわからなくなってしまったのだ。
 現在の編集長は武田仁さん。かつて「一の日会」にも出入りしていたというSFファンダム出身の方。「おひさま」でメールアドレスを書いていらして、メールのやり取りをするようになってから、意志の疎通がはかれるようになった。今回の掲載は、そういう意味ではインターネット抜きではなかったかもしれない。
 「おおごえこぞう」の絵を描いていただくのは飯野和好さん。前回の「おどりじいさん」も飯野さんの絵で飾ってもらった。一流の画家の方に自分の作品を絵にしてもらうと、それだけで話がより面白いものになる。絵本というのはそういうものだ。あと3ケ月半、待切れない。おっと、浮かれていないで次の作品を早く書き上げてしまわなくては。

3月13日(金)

 妻が新聞のオリコチラシをチェックしていたら、面白いのが見つかった。
 コピーはこうだ。
愛に不信を感じた時
 さて、これは何の広告でしょう。
 正解は興信所であります。「N山A子調査事務所」というところが出している(宣伝するつもりはないので一部名前をイニシャルにしております。もっとも、大阪の人ならピンとくる人もいるかもしれない)。なるほど、浮気調査のコピーとしては目をひくかもしれない。なんだかレディース・コミックっぽいところがいい。
 次に面白いのは事務所の説明だ。
当事務所は警察・教職OB等で組織された、20年の実績ある調査事務所です
 こらこら、警察はわかるが、教職のOBがいることがどうして興信所の売り物になるのだ。まさか勤務校で集めたデータを持ち出しているとか、そんなんじゃあるまいな。なんか変だ。
 すみっこに小さく「愛と信頼のきずな パールグループ」とある。これはいったいなんだろか。近鉄となにか関係があるのか。同業者の組合かなんかだろうかと思ったら、裏面に「社団法人 大阪府調査業協会正会員/日本調査業協会加盟員」とある。そんな法人があるとは知らなかったが、興信所は信用が必要だからそのようなものがあってもおかしくはない。しかしこれだけでは「パールグループ」の謎は解決されない。
貴女の幸せの為、悩み!解決のお力添えをいたします。私達は専門知識による極秘調査ですので、絶対に〔秘密〕は外部に漏れません。安心してご相談ください」(原文ママ)
 ”悩み!解決”と妙なところに力を入れているのがそこはかとなくおかしい。”私達は専門知識による極秘調査です”というのは主語と述語が噛み合っていないが、なんとも味がある。〔秘密〕と括弧でわざわざくくっているのも実に変である。
 このチラシ、どれだけ効果があるのかは部外者にはわからないが、全体に妙な雰囲気が漂っているのが意外に効いているかもしれない。
 しかし、「パールグループ」って、本当に何なんだろう?

3月14日(土)

 卒業式のシーズンでありますね。
 今日は所用で外出したのだが、着物に袴姿のお嬢さんたちがぞろぞろうろうろ。短大の卒業式があったらしい。しかし、あれ、自前の衣装なのか貸衣装なのか、どっちなんだろう。あんなもの(失礼!)買ってもそんなに着る機会はないだろうが。
 私がこれまで勤務したいくつかの学校では、2人、3年担任の女の先生が卒業式にあの袴姿で参列していた。なにか勘違いをしているのじゃないかと私は思ったね。だってそうでしょうが。生徒たちは制服でみんな地味な格好をしているのだよ。自分ばっかり目立っちゃいけないよ。卒業式の主役は教師じゃなくって生徒なんだから。
 しかし、今日、袴姿で歩いているお嬢さん方を拝見していて、一概に責められないかもなとも思った。あれ、自前の衣装だとすると卒業式ででもないと着る機会はないわけだ。友だちの結婚式にあんな格好をしていくわけにはいかんわなあ。とするとだ、生徒の卒業式だろうがなんだろうが関係ないよね。
 どうしてあんな格好を判で捺したようにしたがるのかな。スーツかなんかにしとけばあとで使えるのに。ヅカガールじゃあるまいし。私が大学を卒業した時は、まだあの格好は主流じゃなかった。振袖を着た女の人が多かったように思う。学生結婚をして留袖できていた人もいたけど、まあそれは例外として。妻が会社の若い同僚にきいたら、あの格好をするのが当たり前になっているのだそうだ。何もすきこのんで人と同じ格好をしなくていいようなものだが。
 あの姿を見ると卒業式だとわかるから、便利と言えば便利ではある。

3月16日(月)

 昨日はサークル「たちよみの会」例会。喫茶店で会員Y氏とヨタ話をしていたら、突如携帯電話が鳴り始める。なにごとならんと思ったら、知人より夜遊びのお誘い。美味しい酒を飲んでフグを食べて、遅くなり、ホームページの更新はできず。わざわざおいでくださったみなさん、申し訳ありませんでした。

 11月22日の日記で書いた妻の「図書館ナンパ事件」を「本の雑誌」の「三角窓口」に書いて送ったら、4月号に掲載された。一度ホームページに書いたものを、とも思ったがあまりに面白いネタだったので書いたのである。
 投函してからふと思った。これは二重投稿になるのかなあ。もっともホームページの場合は著作権も版権も全て自分にあるわけだし、読んでもらうのにお金をとっているわけでもないし、それでもうけているわけでもない。
 というわけで、ここはあの面白さをもっといろいろな人に分かちあってもらおうということで、自分なりに納得した。
 しかし、これは二重投稿になるんだろうか。ご存知の方がいらしたら教えて下さい。

3月17日(火)

 ここのところ毎日のように童話の原稿を直している。掲載されることは決まったのだが、そのままでは長過ぎて予定のページに入りきらないのだ。
 私は学生時代は小説家志望だった。童話を書くようになるなんて思ってもいなかった。岡本俊弥さんのご推薦で「SFアドベンチャー」の新刊チェックリストの執筆陣に加わったことから、書評家としての活動が始まった。以来10数年、途中でブランクはあったものの書評を書き続けている。それでも小説を書きたいという気持ちは捨ててはいなかった。
 養護学校に勤務するようになり、学習発表会でオリジナルの劇を書いた。なんとなくそれを埋もれさせたくなかったところに、「おひさま大賞」の募集広告を見つけた。劇の台本を童話にしようとしたが、規定の枚数ではおさまらない。そこで新たに話を考え、勢いで投稿したら、それが入賞してしまった。
 それからが大変である。
 童話の書き方がよくわからないのだ。ついつい書き込んで長いものになってしまう。話を面白くしようと登場人物を増やしたら、かえってややこしくなってしまう。短くしろと言われても、どこをどう書き縮めればいいのか、これもわからない。
 編集長の武田さんのアドバイスで、どうすればいいのか少しずつ見えてきた。
 子どもが共感できるキャラクターが必要だ。テーマは一つに絞り込み、重層的なものは避けたほうがいい。読者が想像できる予知を残し、くわしすぎる描写は避けた方がよい。
 アイデアがでたら、これらを肝に命じて書くのである。
 書評をしていると、面白くないものにも出会う。そこへ上記の要件をあてはめてみるのだ。すると、なぜその話が面白くないのかが見えてきた。もちろん、小説と童話を同一線上で語るわけにはいかない。しかし、物語をつくりだすという点では同じである。大長篇で一見複雑に思える話でも、そぎおとしていけば意外と物語の芯はシンプルであったりもする。
 同じ文章を何度もいじくりまわすのはしんどいが、そうやって少しずつ書き方がわかってくる。今日送稿した分でなんとかOKがでそうだ。
 次回こそ一発OKというような作品を書きたいものである。

3月18日(水)

 今日、仕事の帰りに駅前のスーパーに寄った。買い物をすました後もよおしてきたのでトイレに。いきなり行く手を阻むように高校生くらいの若者たちが4、5人たまっている。
「すんませーん」。
 いったいなにをあやまっているのかと思ったら、手洗場のところで髪を洗っているのである。ぷん、とシャンプー独特の香りがする。真ん中に髪を泡だらけにしてアトムのようにつんとたてた奴がいて何やら怒っている。まわりを取り囲む連中は洗うのを手伝っているようだ。
 いじめ、というのでもなさそうだ。そういうのは雰囲気でわかる。だとしたら、ふざけていて髪に何かかかったのかもしれない。ちょうどここはスーパーだ。シャンプーなら売るほど置いてある。いやいや、売っているのです。「そこのトイレで洗うたらええやんけ」てなことになったのかな。
 こちらだってトイレを使いたい。一歩踏み出すと、彼らは口々に「すんませーん」と言って、モーゼの前の紅海のごとくさっと道をあける。髪を洗いながら騒いでる若者たちの横で用を足すというのも具合の悪いものだ。早々に切り上げて手を洗おうと思ってまた困る。手洗は彼らによって独占されているのだ。「えーと」と声をかけるとまた、「すんませーん」という声とともにさっと彼らは移動。手洗は2台あったのだった。
 つつがなく手を洗い、トイレを後にした。しかし、春とはいえ、まだ水は冷たいぞ。若さというのははしたないことでも平気でできるということだと思うが、いいかげんにせんと風邪ひくぞ。
 まあ、驚いたが、いやに楽しそうであったな。どんなことでも楽しめるのが若さの特権か。それをネタにして日記を書いて楽しんでいるおっさんもおっさんだ。

3月19日(木)

 今日、仕事の帰りに駅前の本屋に寄った。本屋を出るとすぐにカラオケボックスがある。そこから出てきたのが着物に袴姿の女性3名。のどをさすりながら「のど、痛なったわ。声ががらがらや」。
 その格好は卒業式だろうが。そんな着物でカラオケ屋に行くなよ。恥ずかしいやないか。
 私はトイレで髪を洗う高校生には寛大だが、晴着でカラオケボックスに行く女子大生には寛大になれない。昨日の高校生たちは少なくとも自分たちの行為が人の目にどう写っているかを意識しているに違いない。しかし、くだんの女子大生たちはどう写っていようともおかまいなしである。その違いゆえに寛大になれないのだ。
 卒業式が特別な日だから行動に気をつけよといっているのではない。その日をどう過ごそうとそれは当人の勝手だ。問題にしたいのはその格好なのだ。彼女らは着物に袴というスタイルで卒業式を自ら特別なものにしている。つまり、「ハレ」の空間を形成しているのだ。だとしたら、そのスタイルをしている間は気持ちも「ハレ」でなければならないと思う。それは彼女らの選択なのである。
 ところが、彼女たちはそのスタイルのままでカラオケボックスという「ケ」の空間に入り、のどが痛くなるまで歌っているのである。つまり彼女たちにとっては卒業式の日というのは特別な日ではなく、コンパの一次会みたいなものに過ぎないというわけだ。
 だったらそんな格好をするな、といいたい。普段着で式に参列すればよいのだ。自分で自分を演出するために晴着を着てるのだろうが。その格好でいる間は演出しつづけるのが当然ではないか。
 だから、はたから見ていて恥ずかしいのだ。そういうことを恥ずかしいと思わないことが、これまた恥ずかしい。だから私は寛大になれないのである。

3月20日(金)

 ここしばらく小説をまともに読んでいない。今日は雨が降り電車で出勤したので、車中で読みかけの本をなんとか読み切った。なぜ読めないかというと、答えは簡単。頭が働かないからだ。小説を読むというのはなかなか高度な技術を要する。読解力、想像力、握力、睡魔との戦闘力など、いろいろな力を総合しなければならない。
 ところが、勤務先では年度末処理と学校移転にともなう引っ越しと学級指導が重なって、心安らぐひまがない。常に追い立てられてるといった具合なのだ。家に帰ってすぐに夕食を作り、録画しておいた相撲を早送りで見、ホームページを作り…。
 童話の書き直しを毎日やっていたのも響いている。あれはけっこうきついものがあった。むろん書いている時は充実しているのだが、書き上げたものをメールで送った後、すぐに小説など読めるものではない。頭のモードを切りかえることができないのである。
 前述の通り、今日は久しぶりになんとか本を読み切った。明日から2連休だし、気持ちも新たに読書したい。なんといっても私のエネルギー源は読書なのである。


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