ぼやき日記


3月21日(土)

 私と妻の結婚式で司会をして下さった女性が明日結婚式。祝電を打ってお祝いにかえることとした。昨日の日記にも書いたように頭がうまく働かない。申し訳ないと思いつつNTTの用意している例文を利用させてもらうことにした。どうせ当たり障りのない文例が並んでいるのだろうと思って「ハローページ」を開くと、豈図らんや、のけぞるような電文がずらーり。
 「ハローページ」なんてたいていの家にあるだろうからここでわざわざ紹介するほどのこともないかもしれないが、面白いので引用する。
「ここに生まれたすてきなカップル、ここから芽生える小さなドラマ、今日から築く楽しい家庭、今日から始まる大きな幸せ。ご結婚おめでとうございます」、浜村淳か玉置宏か、歌は流れる貴方の胸に。歌謡曲の司会じゃないんだから。この電文を読み上げる司会者の口調もそんな風になってしまいそうだ。
「レモンのようにフレッシュで、ビールのようにコクがあり、ジュースのように甘い家庭を、二人で仲良くつくってください。末永くお幸せに」。ビールのようにほろ苦く、ではまずいとは思うが、コクとくれば日本酒とかブランデーとか、他にあるでしょう。この3つでカクテルを作ったって飲めたもんじゃないぞ。
「愛が、ロマンが、笑いがある。いつも二人で語り合い、ハッピーなマイホームを築いてください。二世誕生を楽しみにしております」。愛とロマンと笑いですか。「男はつらいよ」の世界ですね。なんだか3つ並べるのが好きな人がいるようだな。
「あなたには、いつも先を越されっ放しの私。でも許します。ステキな花嫁さんと花婿さんへ、ちょっと悔しいけれど、おめでとう」。こらこら、これは絶対お祝いの言葉じゃない。こんなにいやみったらしい電報をもらったら、私は今後その人とはようつきあわんね。妻が言うには、「いかにもおやじが作った文章」となる。
 NTTの人も、なんか若い人向けの電文をと思って考えたんだろうけれど、明らかにどこかズレているとしかいいようがない。洒落た言葉なら、自分で考えますよ。例文はスタンダードなものだけ並べておいてくれれば、それをアレンジして使えばいいだけのこと。いやしかし、民営化してから、NTTはあれこれとサービスを用意しているが、こういう的外れなことを考えている間があったら、その分電話代を下げてくれればいいのに。
 私はごく当たり前のものを選びました。

3月22日(日)

 卒業式に警官を配置した中学校が全国に続出したという。アホかいなと思う。そんなに自分の学校の生徒が信じられないのか。普段生徒の前で偉そうにしている教師は、結局はそれが虚勢であったということをいみじくも証明してしまったといえる。
 以前にも書いたが、私が中学校で講師をしていた時に生徒に殴られたことがある。あれは怖いものだ。相手だって虚勢をはっているのだが、虚勢に対して虚勢を張ると、これはよりはしたない方が勝つのに決まっている。だから、大声を出して逃げる方がはしたなさにおいてはこちらの勝ちなのだ。そうでなければ素直にどつかれるがよろしい。
 もっとも最近は抵抗しないとかさにかかって攻めてくるから、逃げた方がいい。
 話がそれた。警官を呼ぶということは、自分たちが生徒に危害を加えられると判断したということである。生徒を信じていないのだ。それならそれで自分たちで身を守る算段をすればよい。それすらせず安易に警察という別な権力にたよっているのだ。こんなに恥ずかしいことはない。
 理想論だといわれるのを承知で書く。
 警察を呼ぶくらいなら、普段から生徒に危害を加えられないように信頼関係を作っておくべきなのだ。それができていない教師は自分がナイフを持って生徒が刃物を振り回した時に備えるがよい。誰もそのことを非難はすまい。それを体罰だの対生徒暴力だのと責める親がいたら、自分の子どもが刃物をふりかざしたら、あなたはどうしますかとききかえせばよい。
 校内暴力の嵐が全国の中学校を吹き荒れた時も、ここまで警官が学校に配置されたことはなかった。そのことを保護者たちはどのように見ているのだろう。保護者の声も聞きたいものである。

3月23日(月)

 プロ野球、ヤクルトスワローズのドリスキー選手が登録名をドリスキルと変えたそうな。もともとドリスキルが本名なのである。それを野村克也監督が呼びにくいとかいう面妖な理由でドリスキーと登録したのだ。本人はそれをいやがって本名に戻してほしいと希望したらしい。
 そりゃそうだろう。私だって喜多という漢字が書きにくいから「北」としてくれとか言われたら嫌だ。
 日本の球界は外国人に対してそのような扱いを平気でしてきた。私の覚えている範囲で過去の例をあげてみよう。
 カープにいたランスは本名をランセロッティという。長過ぎるので名前をちょん切ったのだ。カープは前科があってシェインブラムをシェーンとやった例もある。
 短いのを長くしたのもある。ドラゴンズはロー選手の名が短すぎるのでファーストネームをくっつけてバンスローとした。バファローズはオリオンズのリー、ライオンズのテリーと名前がかぶってややこしいという理由でテリーリーという珍妙な名前の選手を出場させた。正しくはテリー・リーと中グロを入れるべきだっただろう。
 タイガースもたいがいなことをしている。正しい発音のバッケイではオバケみたいだとしてバッキーと呼ばれた選手がいるかと思えば、バスと正しく表記するとその選手が打たなかった時にスポーツ紙に「阪神バス、エンスト」等と書かれるかもしれないと恐れ、バースと名乗らせた選手もいる。ともに球史に残る名選手となったところが面白い。
 かわいそうなのはオリオンズに在籍してマニーと名乗らされた投手だろう。本名はマンコビッチ。本人のせいではない。日本語の女性の陰部をさす言葉と酷似していたという不幸。もっともバファローズはボンボ・リベラという選手をボンボの名で登録した。九州遠征ではかなり野次られたそうだ。これも女性の陰部をさす言葉だったのだ。バファローズの本拠地が大阪だったので気がつかなかったということ。
 ホークスではデイヴィッド・ホステトラー選手がホステスを連想させるとかいう奇怪な理由でファーストネームで登録した。なぜかデビットとDがTになっていた。このチームでは王天上と漢字で登録されたオーテンジオという選手もいた。
 ブレーブスはグレッグ・ウェルズとブラッド・レスリーの両選手を愛称で登録した。ブーマーとアニマルといえば思い出す人もいるだろう。愛称でいえば、タイガースとホークスの監督を務めたブレイザーもそうだ。本名はブラッシングゲームという。
 今じゃイチローとかサブローとかショーゴーとかデニーなんて日本人選手がいる。愛称ぐらいならば私だっていいと思う。でも、名前をちょん切ったり途中で変えたりするのは相手に対する侮辱ではないだろうか。幸い最近は多少長い名前でも省略しない例が多い。昨年タイガースにいたグリーンウェルなんて、昔ならグリーンと改名させられていたかもしれない。それが当たり前なのである。ドリスキル投手の主張が通ったことは非常に喜ばしいことである。

3月24日(火)

 映画「ビーン」が行列を作るほどの人気だそうだ。「ポストマン」よりも入りがいいように新聞では報道していた。ここのところの「Mr.ビーン」人気からいって予想されたことではあるが、配給を決めた時点ではおそらくこれほど人気が高まっているとは思わなかったのだろう、関西で「ビーン」を公開している映画館はどこも小規模の劇場だ。よって行列ができやすいとこういうわけ。
 配給元の考えもわからないではない。私が初めてNHKで「Mr.ビーン」を見た時、「これはおもしろい! イギリスらしいブラックな喜劇だ。さすが『モンティ・パイソン』の国だ」という感想を持った。同時に「これは絶対一般受けしないぞ。こういうユーモアは一部の好きな人たち向けだろう」と思ったものだ。ところがCDショップでVTRが発売されたとたん、ベストセラーとなる人気。レンタルビデオ屋でも一番目につくところに置いてある。
 これはどうしたことだろう。それだけ日本人の笑いに対する感覚が変化したのか?
 それにしてはTVのバラエティ番組をたまに見ても相変わらずタレントのキャラクターにおぶさったままだ。
 CDショップで「Mr.ビーン」がいつも持っているテディベアを売っていたのを見て、なんとなくわかったような気がした。「Mr.ビーン」が受けているのは主役のローワン・アトキンソンのキャラクターが”なんとなくかわいい”からではないだろうか。アトキンソンがやろうとしていることが本当に伝わっているのかどうか。
 もっとも”笑い”というものは理屈ではない。なんでもいいから「Mr.ビーン」が受けて、TVでそれを意識した上質の”笑い”が増えてくれればいうことはないのだ。
 そういう意味で、ファッションでいいから「Mr.ビーン」はもっともっとブームになってほしいものだ。
 ところで、「この「Mr.ビーン」ブーム、なんだか仕掛人がいるような気がする」と妻が言う。そう言われればその通りだ。NHKの穴埋め番組がいくら面白かったからといってもそう大ブームになることは稀である(過去には「刑事コロンボ」という大ヒットがあったが)。VTR発売予告のポスターがCDショップの一番目立つところに貼られていたのはいったいなぜだろう。「Mr.ビーン」が商売になると踏んだ人物がどこかにいるはずである。そこらへんを知りたいものである。

3月25日(水)

 「S−Fマガジン」5月号の「てれぽーと」欄で作家の梅原克文さんがまたまた「大衆娯楽小説としてのSF」論を開陳している。私はSFとは「知的エンターテインメント」であると思っている。そういう意味では梅原氏が蛇蝎のごとく忌み嫌うJ・G・バラードも読者を知的興奮に誘うエンターテインメントだからまっとうなSFだと考えるものだ。まあ、そういった論考はちゃんとSFを読んでいる人にまかせよう。
 私が梅原氏の文章を読んであれれと思ったのは、彼が「『SF』という略称で呼ばれたためにSFはなにがなんだかわからなくなって『大衆娯楽小説』も『実験小説』もいっしょくたになってしまった。『シミュレーション戦記ノベル』はそのような略称が生まれなかったことが幸いしている」といったような意味のことを書いているところである。
 私は意識して梅原氏がいうところの「シミュレーション戦記ノベル」を「架空戦記」と呼ぶことにしている。というのも、「シミュレーション」と銘打たれているものでも実際はそうではなく自分の都合のいいように歴史を改変しているだけというようなものもよく見られるからである。出版社も「戦記シュミレーション」「戦略シミュレーション」「ハードシミュレーション」「架空戦史」「架空戦史浪漫」などなど本によって呼び方を変えているのが現状である。私はたぶん200〜300冊くらいは架空戦記を読んでいるが梅原氏のいう「シミュレーション戦記ノベル」という呼び方はあまり目にしないなあ。実は決まった呼び方はこのジャンルに関してはまだ確立してないのだ。
 呼び方だけではない。その内容もSF的要素が強いものからゲーム的要素の強いもの、小説としての面白さを追求したものから戦争の推移を解説的に書いたものと様々である。SFほどの広がりはないかもしないが、「架空戦記」もなにがなにやらわからなくなってきている。
 梅原氏はどれだけ架空戦記を読んでいらっしゃるのだか文面からは読み取れないが、上記のようなことを断言できるほど架空戦記は確固たるジャンルではないということをご存じないらしい。そのような認識でジャンル論を展開するのはいかがなものかと思う。
 部分的に反論しても梅原氏は「まいった」と言わないように思うのであえて「てれぽーと」欄に投稿しようとは思わないが、架空戦記を書いてらっしゃる作家の方はこのように引き合いに出されてどのように感じたか、一度うかがってみたいものである。

3月26日(木)

 勤務している学校が移転し、昨日は引っ越し。単車による通勤ルートが大幅に変わった。
 そうなると楽しみなのは沿道ウォッチングである。これまで通っていた道は何もないところに人工的に作った環状道路だった。そのため沿道には便利なお店や楽しいお店が極端に少なく、工場ばかり。新しい道は旧街道のため、バラエティに富んだ建物や店が軒を接している。今はまだ道に慣れることが先決である。自動車の流れや信号の間隔などは実際に何度か走ってみないと瞬時に反応できるようにならない。まわりを見渡す余裕もない。
 私の場合はやはり書店を探す。意外に面白い品揃えをしている書店が見つかるかもしれない。CDショップというのはあまりないなあ。コンビニによっては飲み物や菓子に独自の品揃えをしているところがあるから、何軒かあたってみるのも楽しかろう。
 ここのところ学校の引っ越しや季節の変わり目特有の不安定な気候で家に帰ってもなんだかどっと疲れがでてしまい、あまり気分がよくなかったのだが、こういった楽しみを自分から見つけていってなんとか乗り切りたいものだ。
 今年はそんなわけで春休みはほとんどなし。おっと、そんなことをいうと贅沢だと怒られてしまうか。

3月27日(金)

 今日は雨降り。電車で出勤する。新しく移転した学校は吹田市の江坂近辺にある。ここは「東急ハンズ」をはじめとしたいろいろな店が立ち並ぶ繁華街だ。
 これまでの勤務先は千里ニュータウンという住宅街の中にあった。
 人ごみとは縁のないところから急に人だらけの街にいったということだ。オフィス街でもあるので、いかにも研修中というような新入社員たちがゾロゾロと歩いている。
 今日は帰りに「東急ハンズ」に寄る。いろいろなおもちゃがあって楽しい。なにか買おうかと思ったが、今日は偵察だけにしておく。私の悪い癖で後先考えずにものを買ってしまい、置き場所に困ったりする。
 先日、吉本タレントのおしゃべりキーホルダーをひとつ買ったのだが、他のものも揃って売ってある。残り全部欲しくなってきた。でも、ひとつ買ってきただけで妻に叱られたからなあ。うーん、やっぱり欲しいなあ。少し冷却期間を置くべきだな、これは。
 しばらくは「東急ハンズ」に足を運び続けることになりそうである。

3月28日(土)

 所用で京都へ。
 新京極通には土産もの屋がたくさん並んでいる。その中の一つに店頭で小形育成ゲームを吊って売っている店がある。「たまごっち」全盛期には類似商品を含め一つが5000〜6500円あたりで売られていた。定価は1980円だから2.5〜3倍の価格をつけて売っていたわけだ。ボロ儲けである。中には8000円くらいするものもあった。「白のたまごっち」とかいうやつで最初の型である。生産台数が少なかったために品薄でそれだけのプレミアがついたのだろう。
 今日、同じ店の前を通ると以前育成ゲームを吊っていた網には、あらゆる種類のハイパーヨーヨーがかかっていた。栄枯盛衰は世のならい。育成ゲームはというと、「新種発見たまごっち」も「てんしっちのたまごっち」も「モスラのたまごっち」も一律1000円である。半額にしても売れていない。類似品は900円でかごに入れて売られていた。投げ売り状態である。
 私も一時「ジュラペット」という育成ゲームに熱中してたがあれはやり始めると他のことができなくなる。その上成長するキャラクターに限りがあるので、新しいものが欲しくなるのだが、品薄で手に入りにくい。ひととおりいきわたったらもう売れないだろうと思っていたら案の定ブームは急速に下火になってしまった。
 育成ゲームの専門店は去年の暮れあたりから店をたたんでしまっている。こちらも全盛時には法外な値をつけていた店だ。まさかここまで急激に売れなくなるとは思わなかったが、売れているうちに稼げるだけ稼いでおいて下火になりかけたらさっと手をひくところなんざ、うまいものだ。
 育成ゲームというのはアイデアもよかったし、手の中に入るというコンパクトな設計もよかった。ただやはりセーブ機能がないのとキャラクターのバリエーションに限界があったのがネックだったかもしれない。それから常に品薄だったところがかえって話題になったということもあるだろう。そういう意味では量産体制が整ってきたことが逆にブームの終焉を告げることになったのではないだろうか。皮肉な話ではある。

 昨日の日記で「東急ハンズ」が「投球ハンズ」になってた箇所がありましたので直しました。ご指摘いただいたみなさん、ありがとうございます。実は私の新しい勤務地はバッティングセンターの隣にあったりするのですが、決して「投球ハンズ」という名前ではありません。そうだと面白かったのですが。

3月29日(日)

 今日も京都ネタ。
 河原町通をブラスバンドの行列が歩いていた。「全国女子ブラスバンド大会」なるもののデモンストレーションだそうだ。先頭は橘女子中学と高校の女の子たち。その後も全国各地の女子校の吹奏楽部がマーチを鳴らしてやってくる。
 不思議なもので、道行く人々は必ず一度は立ち止まり、とりあえず一つのグループが通り過ぎるまで見物してしまう。交差点の向こう側からわざわざ走って見にくるおばさんもいる。一曲終わると自然に拍手が沸き起こる。励ましの拍手といった感じか。
 歩きながら吹くのだから大変そうだ。信号が赤になると足踏みしながら演奏している。息を切らしそうなものだが、そこは普段から訓練してるのだろう、一糸乱れぬ動きである。学生たちも大変だろうが、指導者も大変に違いない。一定のレベルで演奏するだけではなく、足並みを揃えタイミングよく楽器を上下させなければならないのだ。
 私立の学校なら指導者はいったん決まると長い間変わらない。ところが公立の場合、人事異動で他の学校に移ることがある。その指導者が抜けたらそれまでトップクラスだった学校が一気にレベルを下げ、異動した先の学校がわずか1、2年でコンクールの上位に入ったりする。そのため校長がなんとかその教師を異動させないように頑張ることもある。
 しばらくパレードを見ていたが、やはり私立が多い。意外とユニホームはみな地味である。パンチラ写真を撮っているようなけしからん輩はいなかった。ああいう奴はカメラを取りあげてたたきつぶしたくなる。
 元気に演奏している女の子たちを見ていると、こちらも少しは元気になったような気がした。

3月30日(月)

 大阪は急に気温があがり、桜も一気に花開く。
 私の住まいは団地がかたまったところにあり、桜はおろか普通の草花もそれほど生えていないという、四季の移り変わりを肌で感じることのあまりない土地にある。
「あっ、蚊にかまれた。そうか、もうそんな季節か」
「最近蚊が出なくなったなあ、涼しくなったからな」
 どぶ川が近いので、季節を感じるのは蚊の出没による。悲しいものです。
 来週あたり花見にでも行こうと計画をたてた。これだけ緑が少ないとストレスもたまるわい。
 庭のクスノキは今が落葉真っ盛り。団地の庭掃除当番がまわってきたら、汗だくで落ち葉をかき集めなくてはならない。
「ああ、庭掃除のしんどい季節になったなあ」
 そんなことで季節を感じたくはないぞ。
 それはともかく、学校に行ったりすると新学期の準備をしているかのように桜が咲いている。学校に勤務をしていることを、この時ばかりは嬉しく感じる。これで原稿締め切りがなければいうことはないのだが。
 そうです。「S−Fマガジン」の原稿締め切りの時期がやってきたのです。今月は準備らしいことをしていないので編集長から電話がかかってきて焦ってしまった。
 明日は春休みで出勤しなくてもよいが、一日がかりで原稿を書かなければ。

3月31日(火)

 どうもお尻に火がつかないと物事にとりかかれない。
 とうとう締め切りが来てしまった「S−Fマガジン」の書評を書き始めるのだが、いつも苦しむのは書き出しだ。すっと書評に行ってしまえばいいのだが、落語風にいえば、枕をふらないと本題にはいれない。パソコンを前に頭を抱えることしきり。
 苦しむとそれが文章に出てしまう。今回はなんだか愚痴っぽい書き出しになってしまった。一晩寝かせて明日にはもう一度見直してみよう。たぶん書き出しの部分は大きく書き直すことになるのだろうな。幸い本文を書いたことでエンジンはあたたまった。一日頭を冷やせばもうちょっとましな書き出しになるだろう。
 ああそうか、いっそのこと書き出しを削ってもう一冊分、書評を書けばいいのだ。
 てなわけで明日も頭を抱えながらパソコンに向かうことになるだろうなあ。ああしんど。


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