ぼやき日記


7月1日(木)

 つい引きずり込まれるということがあるね。
 おばはんの馬鹿笑いというのはすごいよ、あれ。
 うちの団地の裏に長屋があって、そこの前の道はこれ全面おばはんの憩いの場なわけやけど、時間なんか気にせんと大声でしゃべっておる。午前1時ぐらいになんであんなでかい声で話しながら歩くかね。
 ほんでもって、そこに馬鹿笑いがはさまるわけだ。「くぱぱぱぱぱ」「かかかかか」「うひーおっほほほ」。この世にこんな幸せなことはないという笑い声やね。それが聞こえてくると、つい真似してしまうわけですわ。窓の外で「ふひゃひゃひゃ」、それを聞くとつい「うひゃひゃひゃ」と口をついて出てしまう。
 ああ嬉しそうやなあ、と思う。ええなあ、とも思う。別にあのおばはんたちかて悩みがないわけやないやろう。そやけど、そんなもんを吹き飛ばしてしまうエネルギーに満ちてると思いませんか。どうしたら、あんなに嬉しそうに笑えるんやろうと、思いませんか。羨ましいとは思わへんのやけど。
 こうやってくだらんことを書いている窓の外で、ほらほらまた笑うてる。「そーやんかいな、うきょきょきょきょ」「ほんまにー、どへゃへゃへゃ」。なんの話をしてるんやろ。別に内容を知りたいとは思わへんけど。また知ったらきっと「おばはん何を考えとんねん」というようなことしか言うてないんやとは思うけど。
 ああいう風に笑うてみたいような、一生そういう笑いとは縁がないことを祈るような、困った気分になるんでありますね。うひゃひゃひゃ。

7月2日(金)

 相変わらず雨がよう降りますなあ。今頃長野の山奥ではSF大会「やねこん」をやっておるわけですな。雨の中、大変やね。私は今年もSF大会はパス。今年あたり行ってみたいなあと思うたりもしたんやけど、この時期、学校は忙しい。とても参加できる状態にはないであろうと思うていたら、案の定忙しく、風邪をひいてしんどいのに午前中だけしか休まれへん。SF大会に行くなんてとてもとても。体力がもちまへん。

 夕食時、妻が「結婚したらもののみごとにきれいになった女性」の話をする。結婚した相手がさぞかしよかったのであろう、というようなことを言うた後、「彼女はあの時『幸せの丁稚』やったんやね」と言う。
 はて、「幸せの丁稚」とはなんぞや。やはりこの結婚当初は幸せも丁稚の段階で、年季が明けたら「幸せの手代」になりうまく幸せを続ける方法を学び、「幸せの番頭」になってこの幸せの総量を増やせるようになり、ついには「幸せの暖簾分け」を経て「幸せの旦那」にまでなることがでけるという……そんなわけはないわな。「幸せの旦那」になったら「幸せの御寮はん」をもろうたり「幸せの若旦那」や「幸せのいとはん」がでけたりしてどんどん幸せが増えていく、とここまで書くとさすがに悪のりやね。
 妻がそういうわけのわからんことを言うわけはない。これは私の聞き違いに決まっておる。少し考えて「今『幸せの絶頂』て言うたんやね」とききかえす。「うん、そうやけど」。
 体調が悪いと頭もアホンダーラになってしもて聞き違いまでけったいなことになってしまう。いくらなんでも「幸せの丁稚」はひどいなあ。
 あ、これをネタに新作落語を書くというのは……やめといたほうがええか。
 こんな調子やと仕事でも大失敗しそうで、なんとも困ったことです。

7月3日(土)

 いつもくだらんことしか書けませんが、今日は特にくだらんので、心してお読み下さい。

 今日はかかりつけの医者に薬をもらいに京都へ。いつも帰りにCD屋や本屋に寄ってしこたま買い物をしている。
 京都の「TOWER RECORDS」は河原町の「ビブレ」の6階にある。エスカレーターでそこまで登るんやけど、途中の何屋か知らんけどアクセサリー類を売っている店のポップがふと目に入った。そこにはでかでかと……。
〈サングランス 1000円〉
 むろん、そこに売られているのは「サングラス」でありまして、いったいどうしたら中に「ン」が入るのかようわからん。まあ、間違いは誰にでもある。そやけど、誰もチェックせんかったんかな。店長自ら書いたのかもしれんけど。誰かつっこむ客はおらんのか。それとも、「サングラス」は実は登録商標で、わざわざ「ン」を加えて書いたのか。もしかしたら実用新案のサングラスで「サングランス」という商標のものなのか。店長はかつてカープにいたランスという外国人選手のファンでホームラン王をとった彼の業績を忘れることがないように「ランス」の名を織り込むことにしているのか。ええい、これ以上何も思いつかん。
 間違うたままはりつけてあるポップというのは、見てるだけで妙に恥ずかしくなってくるもんですなあ。また、それまで私はぼーっと歩いてて周辺の商品なんか気にも留めてへんかったのに、そんなもんだけは見逃さんというのもなんか性格悪いなあ。

 どうです、くだらんかったでしょう。自慢してどないする。

7月4日(日)

 今日の昼頃、タバコが切れたので近所の自動販売機のところにまで買いに行った。みると、年配の女性が自販機の前に立って、中学生くらいの自転車に乗った女の子2人と話しこんでる。あんなところに立たれたらかなわんなあと思いながら近寄ると、くだんの女性は札を手にして「わからんわからん」と大きな声で言うてる。女の子たちは困ってる様子。私も困る。さっさとタバコを買うてしまいたいのに、こんなところでごちゃごちゃされたくはない。
 どないしたんですか。
「私、こんな機械で買うたことないんや。使い方がわからん」。
 それ五千円札やないですか。そんなもん使えまへんで。
「どないしたらええの。使い方がわからん」。
 これは千円札か小銭しか使えへんのやから、どっかで両替してきなはれ。
 わあわあ言うておると、女の子の一人が「あの、あたし五千円持ってます」と言うて千円札5枚を差し出した。最近の中学生はさっと五千円札を両替できますか。おっちゃんなんかポケットに千円札1枚つっこんでるだけやのに。
「ああおおきに」。
 年配の女性が札を交換すると、女の子たちはさっさとあっちに行ってしまう。
「使い方がわからん。これ、どないしますのや」。
 しゃあないなあ、これはここに差し込みますのや。
「このボタンを押したらええんか。出てこん。なんで出てこん」。
 そらおばちゃん、このマイルドセブン、売り切れや。
「出てこん。なんで出てこん」。
 売り切れや、品切れや、機械にタバコが入ってないの。
「出てこん。なんで出てこん」。
 これ、マイルドセブンの中身は同じやけど、箱に入ってるのがあるやろ。10円高いけど、これにしとき。
「がちゃがちゃ。出てこん出てこん」。
 この隣のマイルドセブンライトやったらあかんのか。
「出てこん出てこん。お金も返ってこん」。
 しゃあないなあ。ここをこうやったら、ほら、返ってきたやろ。
「あそこの店にはタバコはないの」。
 あそこのコンビニには置いてないなあ。もひとつ向こうの信号のバス停の前やったらあるで。そこで買い。
「なんや、お金返ってこん」。
 さっき返ってきたがな。
「お金返ってこん」。
 手に持ってるお金を勘定してみなはれ。5枚あるはずや。
「いち、にい、さん、しい、ごお。ほんまやあったあった」。
 すったもんだの末にその女性は去り、やっとこさ私はタバコを買えた。えらい時間がかかったわい。お菓子でも買うて帰ろかと、コンビニに寄ったら、おったんです、そのおばちゃん。
「ここはタバコ置いてまへんのか」。
「置いてません」。
 コンビニの店員はつっけんどんに返事して、相手にしない。
「ここはタバコ置いてまへんのか」。
 おばちゃん、さっき言うたやろ、タバコはバス停の前のコンビニや。
「むこうですか。おおきにおおきに」。
 なんとかコンビニを出ていったので、安心してお菓子の棚を見て回ったわけやけど、あのおばちゃん、失礼ながら、怪しい。だいたい今どき自動販売機でタバコを買うたことのない人がいるやろか。わざわざ売り切れのランプのついたタバコのボタンを押して、こっちが売り切れやと説明してるときは話をきかんと「出てこん出てこん」を繰り返すというのもわざとらしい。金が返ってこんと騒ぎ立てたのも変や。コンビニの店員の対応があまりにもつっけんどんなんもあのおばちゃんがしょっちゅう来てるからと違うやろか。
 これだけで寸借詐欺かなんかと決めつけてはいかんのやけど、ただの惚け老人とはちょっと違う気がした。
 家に帰って一部始終を妻に話すと、「さすが先生やねえ。わからん人に納得させるのがうまいねえ」と言われてしもうた。そうかなあ。それは関係ないように思うけど。
 しかし、ちょっと近所にタバコを買いに出ただけで、えらいややこしいなあ。あのおばちゃん、あれからどないしたんやろ。今度会うたら知らん顔してなしゃあないな。

7月5日(月)

 本日もおばちゃんネタ。今月は実におばちゃんネタが多い。「おばちゃん観察日記」と名前を変えなならん。
 今日のおばちゃんは最寄り駅の駅前で宗教の布教活動をしている人。片手に小冊子を持ち、誰も聞いているとは思えんのに「神はいつも私たちを見守っておられ……」とひたすら唱えている。毎日、やないと思うが、かなり見かける頻度は高い。
 なんかいつも必死になってしゃべってはるのに、無視するのもかわいそうやなあと思いつつも、相手になってる暇なんかあるかいと知らん顔をして通り過ぎてる。
 そのおばちゃんが、今日は座って人と話し込んでるやないですか。これが、茶髪の女子高校生相手ですわ。この取り合わせのミスマッチというのは興味深いね。たぶん、話の内容は布教でありましょう。おばちゃんは地べたに座ってる女の子二人にいつもと同じ真剣な表情で話をしてる。それを聞いてる女の子たちもまじめそのもの。たぶん、学校の授業よりも真剣に聞いてるんやないか。
 このおばちゃん、いつもただただ立ってしゃべってるだけで、人を呼び止めたりしてる様子はない。ということは、女の子たちから話しかけたのではないかと考えられる。地べたに座って何気なく聞いているうちに興味を持って「もっとくわしい話を聞かせて」と声でもかけたんやろうか。誰が聞いているでもない話をひたすらしているおばちゃんそのものに関心があったんやろうか。暇やったからおちょくっている、というような雰囲気やないんやね、これ。
 そやけど、おばちゃんもそうやって聞いてくれる人がいてよかったのかどうなのか。私はいつも通り過ぎるたびに、この方はこんなことをしてて虚しさを感じないんやろうか、それともこれが神が自分に与え給うた試練と考えてやってはるんやろうか、などといらんことを考えてた。いつか自分の姿を客観的に見て自問自答して投げやりになる日がくるんやないかなどといらん心配もしてた。ところが、こうやって自分の話を聞いてくれる人がいるということで、妙な自信がついて、ますます布教活動に身が入るというようなことになるかもしれへん。本人が幸せやったらそれでええというようなもんかもしれんけど、ほんまにそれでええんやろうか。いやなに、人の心配する前に自分の心配をせんといかんところなんやけども。
 ところで、これ、近い将来に茶髪の女子高生が小冊子を片手に立って布教したりするということになるんやろうか。それはない、とはよういわん。
 実はその女の子たちの方が一枚上手で、実は別な宗教に入信していて、おばちゃんが宗旨変えをして怪しげな壺を売っていたりというようなことになったらこれもまた恐い。
 世の中は、何が起こるかわからんからね。

 明日は所用で遅くなるので、次回更新は水曜の深夜の予定であります。

7月7日(水)

 七夕で珍しく天気もええというのに、私の住んでる大阪府パナソニック市というのは、空気が悪いんかなんかしらんけど、星がろくだま見えんやないかいな。
 七夕やからというて、妻が変わった餅を買うてきた。「冷やしブルーベリー大福」なる餅で、ほのかに薄紫色をしている。食べると確かにブルーベリーの香りもする。しかし、大福を冷蔵庫で冷やして食すると餅が硬くて食べにくい。変なもんがあるとつい買うてくるのは、私も妻もよく似ておるなあと思うが、一般的でないということは、すなわちどこかに欠陥があるということやということが非常によくわかる。

 ナイターを見ていると、スワローズのハッカミー投手の背面が時々写る。背番号の上に名前が書いてある。JACOMEという綴りや。ジャコウムとかジェィカムとか読んでしまいそうになる。英語読みやったらハッカミーにはまずならんな。彼自身はアメリカ人かもしれんけど、どこかの国から移民してきた人の子孫やろう。彼の先祖はいったいどこの人なんやろう。「JA」を「ハ」と読む言語というのはいったいどこの言語なんか。私はものを知らん人間なんで見当がつかん。どなたかご存知の方がいらっしゃったらご教示願えませんか。
 昔タイガースにいたボウクレア外野手はフランス系やったそうで綴りは「BOISCLAIR」でしたが。これやったらなんとなくわかる。
 ナイターの話のついでに。実況のアナウンサーが「リベンジ」なる言葉を使う。直訳すれば「復讐」か。そんなたいそうなもんやないでしょう。ライオンズの松坂大輔投手が使うのはまあええとして、あまりええ語感やないね。「お返し」という言葉の方がしっくりくる。言葉に鈍感なアナウンサーというのは嫌ですな。

7月8日(木)

 まず、NHKの「少年ドラマシリーズ」があるわけです。「明日への追跡」「暁はただ銀色」「夕ばえ作戦」。原作・光瀬龍、という名前がその面白さとともに、子ども心に刻み込まれたんやね。眉村卓、という名前とともにね。次に、京都新聞の夕刊に掲載されてた子ども向けのショートショートがあってね。ここにも、「光瀬龍」の名前があった。ここでは福島正実、石川喬司という名前がともに刻みつけられる。
 学級文庫や児童図書館でその名前を見つけて「少年ドラマシリーズ」の原作からまず読み始め、それ以外にも「SOSタイムパトロール」なども読む。そして、これがSFというものであるということがわかってくる。大人向けの小説を読むようになると、SFの棚には必ずその名前があって、「たそがれに還る」「百億の昼と千億の夜」などを読む。
 つまり、私がSFを読むようになった土壌に「光瀬龍」という存在があったわけです。
 日本SFの本流というものが何なのか、私にはこれだといえる答えはあらへんのやけど、「光瀬龍」という作家の書いたものがその中核のひとつにあったことは間違いないというのは断言してもかまへんと思う。
 SFは人間のせせこましい世界から隔絶された、悠久たる時の流れを描くものであってもかまわんのだ、ということを知った。これは人間を無視しているというのではなくて、いろいろなものを形作っていく中に人間の営みというものが組み込まれているというべきか。
 そうかと思うと時代活劇を書いてみたりするんやから一筋縄ではいかんわな。
 最後の長編といえる
「異本西遊記」の書評を、私は「S−Fマガジン」に書いた。作者が生きているうちに、その本を書評する事ができたのは、幸いやったかもしれん。間に合うた、という気がしている。三文書評屋とて、偉大なる作家の新刊を書評するからには、やはりその見識を問われるわけでありまして……。読んでくれはったんやろか。
 最近、「ハルキ文庫」からかつての傑作が次々と再刊されて、若い読者たちが光瀬龍さんの未来史シリーズを手にとりやすうなった。光瀬龍というSF作家の再評価の機運は生まれてきていると思うた。
 そんな矢先やった。光瀬龍さんの訃報に接したのは。食道ガンやったという。享年71。そんなお年やったんやね。
 謹んで哀悼の意を表します。
 人、うたた情ありて、たそがれに還る……。

7月9日(金)

 昨日、タイガースがジョンソンの代打逆転サヨナラスリーランホームランで劇的な勝利を飾ったんやけど、試合終了直後、野村監督が興奮して「This is 野球や」と言うたそうですな。
 まさにこれこそ野球の醍醐味と、私も思うたね。サッカーと比較してみる。例えばサッカーやと1点取って追い上げる雰囲気になっても、ゴールを決めたらまたボールは真ん中から置かれて、流れがそこで止まるように思うのね。攻めて攻めて攻め込んでさあこれからというところで時間切れになるということもある。4点放されていてもうあかんというところで一気に5点取ってひっくり返してしまうということがない。動きは確かにサッカーの方が派手で面白いのかもしれへんけど、スコアのドラマ性の高さでは、私にとっては、野球の方が面白い。どんなに形勢が悪うても、もしかしたら大逆転するかもしれんという可能性を有している方が、最後まで楽しめる。あと2分で時間切れで3点差ついてたらまるで勝ち目がないというゲームは、私には面白うない。
 時間制限がないというのも(お好きでない人には不評ですが)、私が野球を面白いと感じる理由のひとつか。たとえ追い上げて負けたとしても、野球は矢折れ刀尽きて死んだという感じになる。時間制限のある競技やと、まだ余力があるのにいきなり死刑宣告されるような感じがしませんか。私は思うんやけど、時間切れというやつで終わる競技のファンの人は、試合終了後、あきらめ切れへんで欲求不満がたまるということはないのかなあ。野球は9回1点差まで追い上げて、そこで4番打者が凡退したらそれはそれでしゃあないと思うし、代打を使い切ってて守備要員の選手が打席に入って負けても、それはそれで納得がいく。
 とにかく、昨日のジョンソンの場合、まだ2点負けてるという状況ではあったけど、追い上げの延長線上にあのサヨナラホームランがあったわけでね。あそこで新庄のタイムリーで2点差になって、点が入ったらその続きはランナーなしでいちからやるという条件であれば、ああ劇的にはならんかったと思うね。
 ああいう試合があるから野球は面白いし、それこそ野球ならではの面白さであると、私は思ったわけやね。同じ思いを野村監督も抱いたんやろうね。そやから「This is 野球や」という言葉が思わず口をついて出たんやろうね。

7月10日(土)

 暑いですねえ。もう梅雨明け宣言が出てもええぐらいやないか。
 暑いと冷たいものが食べたくなる。今日は妻が昼寝をしている間にアイスバーを3本も食べてしまった。体に悪いことこの上ない。
 そらねえ、「週刊金曜日別冊ブックレット・買ってはいけない」などという本を読んだら店で売っておる菓子など何も食えへんようになる。書店で「買ってはいけない」を見かけたとき、この本は立ち読みですまさんといかんのかと思うたけど、買うてしまいましたよ。市販されているもので人体に危険なものをあげつらい、徹底的に叩きまくるというコンセプトの本ではあるんやけど、読んでて腹が立ってきたね。
 体に悪いものを平気で売っている大企業に、やない。企業は利益を上げるためにはなんでもするわけで、そんなことは私の子ども時分からあったこと。砒素ミルクにサリドマイド児と、今よりよほどむちゃくちゃなことをしてる。
 もちろん、そういうことを監視して指摘していくことには意義はあると思うよ。そやけど、この本に書かれていることをそのまま実行できるような社会では既になくなっているというようにも思う。この調子でいけば自動車は有害な排気ガスを出すものなのに平気で製造販売をしている、とか、コンピュータの画像は目を悪くする、とか、なんにでもクレームはつけられると思うね。
 現代社会に生きているということは、それだけで常に危険を背負っているといっていい。絶対安全なものなんか、昔も今もなかったはずやし、それを覚悟で生きていくしかないと、私は思う。潔癖さを求めるあまり、排他的になる危険性が「買ってはいけない」にはあるように感じられたのです。
 どうせこの年になるまで、かなりの有害物質を体にいれてきてる。そういうものが蓄積されていることはまず間違いない。今さら無害なものを求めて摂取してもなんになるか、とも思う。「買ってはいけない」で糾弾されているものはそういうたぐいのものと違うやろか、ということですわ。
 というわけで、有害であることはわかりつつ、「暑いわーい」と言いもってアイスバーをばかばか食うのであります。これで腹をこわしたら、それは食うた私が悪い。要は、それが体に悪いことを承知で食うか、何もしらんと食うか、というところに問題があると思う。そやから、魚に水銀が含有されてたり、というのはまた別問題になるということは付け加えておくことにしよう。ミネラルウォーターを飲んで餓鬼に変身する危険は、たぶんないと思う。


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