愛すれどTigers


さようなら、亀山選手

 1997年10月12日、甲子園球場で行われた対横浜ベイスターズ戦。3回裏2死から、和田豊三塁手の代打として、亀山努外野手が起用された。亀山にとっては、4月以来の一軍での打席である。
 亀山は、既に球団から戦力外通告を受けている。つまり、この打席はタイガースファンへのお別れの打席なのだ。
 ぼくは、一塁側特別指定席で、この試合を見ていた。亀山は、ショートへの深い内野ゴロを打った。ショートの石井が一塁の駒田へ送球する。必死で走る亀山。スタンドから、「すべれーっ」と声がかかる。亀山は一塁ベースに向かって、ヘッドスライディングを見せた。そう、亀山の代名詞ともなったあのヘッドスライディングである。彼は、ファンが自分に求めているものが何かをよく知っている選手であった。
 思えば、彼の人気を全国区にのせたのも、ヘッドスライディングであった。
 1992年、東京ドームでの開幕シリーズの巨人戦、彼のヘッドスライディングによる内野安打で、タイガースは勝利をものにした。5月6日には、やはり巨人戦で桑田投手からサヨナラ安打を放った。この試合をぼくは、ライトスタンドで見ている。亀山の打球がライトに飛ぶ。ライトを守っていた駒田が、懸命にダッシュしたが、取れずに後ろにそらす。一塁ベース上で、亀山がヘルメットを高々と放り投げ、ジャンプした。はつらつとした、素晴しいプレーヤーがそこにいた。この年のタイガースは、スワローズと最後まで優勝を争い、もう少しというところでつまづいてしまったが、優勝した年とはまた違った魅力にあふれた、とてもいいチームだった。そして、その中心に亀山がいた。
 あれから6年。亀山はプレー中に痛めた腰が完治せず、この日をむかえてしまった。夜遊び、遅刻、そして離婚など、スポーツ紙や雑誌は面白おかしく彼のことを報道したが、結局彼は故障に負けてしまったのだろう。その故障を克服することができないまま、ストレスがたまり、新聞などで報じられた行状となったにちがいない。それを彼の弱さと断じることも可能だが、ぼくは彼を非難したくないのだ。
 彼は常に全力でプレーし、ぼくたちはそのプレーに酔った。その全力プレーが皮肉にも彼を故障に導いたのだ。
 亀山はこの最終日、試合前の練習時にも、ファンの声援に応えて手を振っていた。そして、試合終了後、選手全員がベンチに引き上げてからも、またライトスタンドの前まで走ってファンに深々とおじぎをした。
 ぼくは泣きそうになるのをこらえていた。
 彼はタイトルを取ったわけでも、大記録を打ちたてたわけでもない。実際に活躍したのは3年半ほどでしかない。しかし、彼のプレーは、記憶に残る。太く、短く生きたハッスル・プレイヤー、亀山努。君のプレーはぼくたちを心から楽しませてくれた。
 ありがとう、そして、さようなら。

(1997年10月12日記)


目次に戻る

ホームページに戻る