タイガースの名物オーナー、久万俊二郎さんがオーナー職を辞任した。明治大学の一場投手に「栄養費」と称する「裏金」を渡していたことに対する責任を取ってのことだった。
久万オーナーが着任したのは1984年のオフ、吉田義男監督、中埜肇球団社長と同時に着任したのだった。1985年のシーズンは、タイガースが「新ダイナマイト打線」の爆発的な打撃力で日本シリーズ優勝まで一気に駆け抜けた年だった。日航機の事故で中埜社長が死去するという悲劇もあったが、それをバネにタイガースは恐ろしいまでの破壊力で勝利をもぎ取っていったのだ。
それから20年。Aクラスは、86年の3位、92年の2位、03年の優勝の3回のみ。逆に最下位は87年を皮切りに10回。20年の間に優勝2回、最下位10回……。
果たして久万オーナーがタイガースに残したものはなんだったのか。
88年にはバースとの契約問題で古谷球団代表が自殺するという痛ましい事件も起きている。それでも久万オーナーはその地位にとどまり続けた。オーナーとして、その発言はいつ注目されていた。であるにもかかわらず、「掛布はミスタータイガースとはいえない」といった類いの失言は絶えなかった。オーナー会議でもジャイアンツ渡邊オーナーに追随するようなことを言ったかと思うと、簡単に前言をひるがえしてしまったりする。言葉の重みというものをあまり深く考えないタイプの人物であったといえるだろう。
野球に関しては知識はほとんどなかったという。だから、掛布が飲酒運転で検挙された時には、阪神グループから交通違反者が出たということにばかりこだわってしまった。掛布は電車の運転手ではないのである。違反は違反でよくないことだけれども、叱責の仕方があったはずだ。
オーナーとして思い切った決断をしたのは、野村克也監督をスワローズから招いたこと、星野仙一監督をドラゴンズから招いたこと、この2つに違いない。野村監督は3年連続最下位という結果を残し、夫人の脱税事件のために退団した。とはいえ、野村監督による意識改革は一定の効果があったと思うし、星野監督は2年でタイガースを優勝に導いた。なりふりかまわない監督起用で、やっとオーナーとしての責任を果たしたのである。
優勝によってタイガースは過去最高の観客動員数を記録した。勝つということがこれほど利益を生むとは知らなかったという主旨の発言をしたというのを知り、なんでそんな当たり前のことを今ごろ気がつく? とあきれたものだ。
久万オーナーの20年間、タイガースが失ったものは実に大きかったという気がする。しかし、その珍妙なコメントが(特に)スポーツ新聞の読者を楽しませてくれたことも多々あった。名オーナーではなかったけれども、名物オーナーだったといえるだろう。
かくして、タイガースは手塚新オーナーによって、新たな時代にはいることになった。あまりいいことは続かなかったけれど、その存在感は、タイガースの顔の一人であったといえるだろう。そういう意味では、少し寂しい気もするのである。
(2004年11月1日記)