2年目を迎えた岡田監督は、今岡をサードに、藤本をセカンドに置き、ショートが本職のシーツを移籍させて一塁を守らせるという大コンバートを敢行した。すべては鳥谷をショートとして一人前にするという目的があったためだと思われた。また、打線も赤星を一番に固定し、今岡を五番に据えるという思い切った入れ替えをし、かつ固定した。六番に桧山とスペンサーを併用、交流戦の時期から鳥谷を二番に入れて八番を藤本と関本の併用という形で打線は完全に決まり、これをいじることなく優勝まで突き進むことになる。
このコンパートの効果は、シーツの一塁守備にあらわれた。名手シーツは一二塁間の打球を実に巧みに食い止めるだけではなく内野手の送球を確実にミットにおさめた。この結果、鳥谷が思い切った守備をすることができるようになり、シーズン中にどんどん守備がうまくなっていくという成長を見せてくれた。
投手陣は、井川、福原、下柳、安藤、杉山と谷間の投手というローテーションを確立し、7回以降は藤川、ウィリアムス、久保田の必勝リレーで逃げ切る形を作った。これは「JFK」と呼ばれるようになり、序盤にとった点を投手陣がきっちり守っていくという勝ちパターンができあがった。
大きな連勝はなかった。しかし、大きな連敗もなかった。年間通じておおむね2勝1敗のペースでペナントレースを戦い続けた。序盤にドラゴンズが独走体勢に入りかけた時も、交流戦でドラゴンズが失速した時も、2度0.5ゲーム差に迫られた時も。追うドラゴンズは2度のチャンスをものにできず、9月7日のナゴヤドームの試合での中村豊のホームランによって引導を渡された。ドラゴンズはタイガースとは対照的に、大きな連勝もあれば連敗もあるという、強さと脆さを同居させたチームだった。勢いに乗れば怖いが、その勢いを止めると、崩れるのも早かった。タイガースは逆に、大崩れすることなく、当たり前のように勝ち星を積み重ねていた。「強い」というよりも「手堅い」チームであった。
個人タイトルは、最優秀選手に金本知憲外野手、打点王に今岡誠内野手、最多勝利に下柳剛投手、最優秀中継ぎに藤川球児投手がそれぞれ初めての受賞。赤星憲広外野手は入団1年目以来6年連続の盗塁王を獲得した。また、ベストナインに矢野輝弘捕手、今岡誠三塁手、金本知憲外野手、赤星憲広外野手が、ゴールデングラブ賞にアンディー・シーツ一塁手、赤星憲広外野手が、それぞれ選出された。
日本シリーズは悪夢のような4連敗で優勝の嬉しいムードを吹き飛ばしてしまったけれども、これでまた目標がひとつ設定されたことになる。ただ、このことでタイガースの優勝の価値がなくなったわけではない。競り合う中で選手たちが着実に力をつけてきた、そういうシーズンであった。
2005年度のタイガースの戦績。87勝54敗5分。勝率.617。2位ドラゴンズには10.0ゲーム差をつけ、優勝。日本シリーズ0勝4敗。
◎愛すれどTigers年間MVP
投手……下柳剛 もうダメかと思われた時にも、このベテラン左腕の飄々としたマウンドが何度もチームの危機を救った。規定投球回数には達しなかったが、それは球数を考えた監督やコーチが配慮したからで、最終戦には延長戦を完投して15勝目を勝ち得ている。エースと目された井川がここ一番でふがいなかったのとは対照的であったといえるだろう。次点はJFKのリリーフ3人衆。特に藤川の安定感は群を抜いていた。
野手……金本知憲 毎年金本かと思いつつも、やはりチームの中心としてここ一番で放ったホームランはMVPにふさわしいといえる。37歳にして打率、本塁打、打点全てに自己最高記録を更新したという事実には、驚嘆せざるを得まい。次点は今岡。チーム史上新記録となる打点の多さは、岡田監督による五番打者コンバートガ成功した証である。
岡田監督は辛抱強く選手を使い続け、頑固なまでに勝ちパターンを崩さず、そして結果を出した。その頑固さと選手を育てる熱意に、あの闘将西本幸雄の姿を重ねあわさずにはいられない。「適材適所」を常に考えて実行していった手腕に敬服するのである。
(2005年11月14日記)