「ぷちナショナリズム症候群」から「『愛国』問答」を経て、著者が問い続けてきている〈ナショナリズム〉〈愛国心〉に対する回答の一つが本書である。
著者は文部省や東京都の教育委員会、あるいは教育基本法を改訂せよと訴える国会議員たちがなぜ〈愛国心〉を法制化しようとするのかを考える。そして、その根底に自己の存在即ち〈私〉というものを支えるよりどころとして〈愛国心〉が用いられているのではないかという疑義を提示する。それは例えば自分を絶対安全な場所に置いて特定の個人を叩くという行為にも通じるものなのではないか、と。近年「バカ」という言葉をタイトルにつけた本が多く出版され、その中にはベストセラーとなったものさえある。これらの本を読む者は自分が「バカ」と呼ばれたりはしないことを前提に読んでいるのだろうが、逆にいうと自分が「バカ」と言われることを極度に恐れるために他者を「バカ」と規定したい心理が働いているのかもしれない。本書の中で、著者は自分が「バカ」「負け組」と言われるのではないかという不安を抱え、他者に対して攻撃的になったり不変なものを求めてそこにすがるのではないかという考え方を示している。そして、それは例えば9・11以降のアメリカの二者択一的な不寛容さとも同根のものだと指摘する。
現在の日本では多くの人々が〈私〉を見失い、社会から目をそらして内向きな閉息した思考に陥っていると著者は指摘し、〈私〉の誇りを確立するために自分の住む国が強くあってほしいという願望を抱いているのだと分析した上で、その状況に対する危惧を隠さない。
私はおおむね著者の考え方に対して納得できた。人というものは、どうしたって自分の周辺のことしか第一に考えられないものなのだし、他人よりも身内が可愛いものだし、不確かな自尊心を頼りに生きてるものだと思うからである。だからこそ、「ボケ」と「ツッコミ」という漫才的な手法が今こそ必要なのではないだろうか。むろん、漫才では「ツッコミ」より「ボケ」の方が人気者になる。自分自身を笑い飛ばすことができるということは、著者がいう〈私〉を自分自身で直視するということであろう。〈愛国心〉をもてということは、つまり「お上にすがれ」ということであり、それはお上がこけたら砂の城のように崩壊するものでしかないのではないか。敗戦で、多くの国民がその砂の城が崩壊するのを経験したのだが、その経験が下の世代に正確に伝わらないままに風化し、砂の城が再び構築されている。そし、その砂の城を必死で作ろうとしているのが、自分というものを笑い飛ばすことのできない〈不安〉な人々なのではないだろうか。
(2004年8月15日読了)