ぼやき日記


1月21日(金)

 おお寒い。近畿地方に寒波が襲来してめったに雪なんぞふらん大阪の町にも粉雪が舞うておりました。こういうときに原チャリ通勤はこたえる。がたがた震えております。

 「桂文枝落語全集」を出してくれと去年の11月2日の日記に書いたけど、五代目文枝師匠の小文枝時代にLPのセットで発売されてた「桂小文枝上方噺集成」が、実は私の知らぬところでCD化されてたんやね。タイトルは「桂文枝上方噺集成」になってるけど。通信販売ですわ。盲点やったなあ。以前も漫才のCDが通販のみで販売されてたことがあったけど、こういうええものがCD屋で手軽に入手でけへんというのはいかがなものか。まあええ。ともかく手にはいったんやから、それでええ。
 企画としては、文枝師匠が得意とする鳴り物入りの落語を中心に録音されたもの。録音された1980年頃というと、上方落語のレコードで手に入りやすかったのは米朝師匠の全集、枝雀師匠の「枝雀十八番」あたりか。そういう状況で小文枝師匠ならではの演目が揃ったLPセットはもう欲しいて欲しいてたまらん魅力的なもんやったな。しかし、そのころ、私は確か浪人して予備校に通うてたはず。そんなセットなんか買える経済力はありません。米朝師匠のLPにしても「地獄八景亡者戯」しか持ってなかったし、それも親に誕生日のお祝いに無理をいうて買うてもろたもんやったしね。
 20年も待ったということになるのか。長いこと待ったもんですな。それだけにCDが届いたときは嬉しかった。通販のCDというと「魅惑のクラシック大全集」「ジャズ黄金時代」「ムードミュージック全集」みたいな初心者にうってつけの寄せ集めセットみたいなものが多いんやけど、こと落語や漫才に関していえば、CD屋には流通してないセットものが結構ある。同時に「桂小南落語全集」というセットも買うたけど、これも通販のみの企画。よう考えてみたら、CD屋に流通させようと思うたら、けっこうな枚数をプレスさせなあかんわけで、こういう好きな人しか買わへんというようなもんやったら、限定プレスして注文があったら出荷できる通販の方がレコード会社にしたら無駄がなくてええのかもしれへんな。というわけで、これからも新聞の通販の広告やらカタログからは目を離せません。
 どうも通販の広告というと「幸運のアンケラ・ストーン」「願いがかなうラッキー・ニーパッド」みたいなもののそんなことあるかいというような「体験談」を読んでげらげら笑うというようなことしかしてへんかったけれど、それだけやなかったんですな。そんな通販の広告ばっかり探して読む奴がアホやと言いますか。そこまで言わんでも。

1月22日(土)

 今朝のスポーツ新聞の1面を飾ったのが「曙、八百長」。前々から「週刊ポスト」「週刊現代」なんかで曙の八百長についてはさんざん書かれているんで、なんで今頃と思うたら、なんと元小結の板井が外国人特派員協会で八百長について講演したんやそうな。
 あ、板井、やりおったな、と思うたね。実は板井の師匠の故大鳴戸親方が、やはりこの特派員協会に呼ばれて八百長について講演することになってたんやね。ところが、その直前に急死してしもうた。大鳴戸親方はその名もずばり「八百長」という暴露本を出版していて相撲協会から訴えられたりしてたんやけど、本人が死んでしもうたんでそちらもあいまいなまま終わってしもうた。板井は引退するときに相撲協会に親方として残ろうとしてたのに、理事会の反対で年寄名跡を継承でけへんかったということもある。積年の恨みというのがあったに違いない。
 しかし、こういう世界に報道されるような可能性のある場で実名をあげて八百長を告発したということは、かなりの覚悟がなかったらでけへんかったんと違うやろうか。「40万円で曙に星を売った。今場所は18人の幕内力士が八百長をしてる」と事細か。
 一方相撲協会では時津風理事長が「八百長はないと断言する」てなことを言うてる。これでもしほんまに八百長があったら理事長は辞表を出さんなんぞ。ええんかいな。名前を挙げられた力士の反応もいろいろで、全員否定はしているけれど、怒る者もいればしらばっくれる者もいる、ノーコメントというような者もいる。
 さて、事の真偽はともかく、私は別に八百長があったってかまわんと思うてる。真剣勝負でも立ち合いの変化で一瞬にして終わる相撲を見せられるより、芝居であっても熱戦に見えるような相撲であれば、その方が見てて面白い。どうせやるならそれぐらい芸のある八百長をしてほしい。相撲は私にいわせれば純粋な「スポーツ」やないしね。初日、中日、千秋楽とどう考えても芝居の興行やないですか。寄せ太鼓にハネ太鼓、枡席とくれば、寄席みたいなもんですな。星の売り買いやら貸し借りをしてようがなにしてようが、相撲取りがええ芸を見せてくれたらそれでええんです。
 そういう意味では、最近の力士は芸がないな。吊り出し、けたぐり、うっちゃり、さばおりなど俺はこれで飯を食ってるんやという他の奴には真似のでけへん「技」を見せる力士がほとんどおらんやないですか。八百長するんやったら、もっと上手にしなはれ、といいたい。
 ところで、今日の相撲は八百長で名前のあがらへんかった栃東が立ち合いの変化で勝った以外は、なんかすごい熱戦が多かった。これは板井発言の効果かな。やったらでけるやん。こうなったら外国人特派員協会は毎場所相撲協会を離れた元力士を呼んで八百長に関する講演をしてくれへんかな。そしたらそのたびに毎日熱戦が見られるかもしれへん。
 しかし、土俵は正直。ほんまのほんまに板井発言への答えが今日の相撲かもしれへんなあ。

 明日は外出したりする関係で、更新はお休みします。次回は月曜深夜の予定です。

1月24日(月)

 妻は嗅覚が鋭い。と言うても「わあ落とし物をした」「はいはいまかせといて、くんくん」と地べたに這いつくばって「見つけた、わんわん」「おおよしよし、はい、ごほうび」、というようなことをするわけやないですよ。誰もそんな風には思いませんか。
 妻が「これは面白そう」とにらむと、それは十中八九、面白い、という勘の鋭さであります。その嗅覚を信じて、昨日はいっしょに「NANTA」なる韓国のパフォーマンスを見に行く。漢字で書くと「乱打」となる。
 大阪は茶屋町にある「シアタードラマシティー」の全席指定で一人6500円。「初来日の今やからこの値段やで。この評判やったら、次に来るときは1万円にはなってるよ。今見に行かへんと損やん」ということらしい。
 内容は、ホテルの厨房で1時間後までに料理を作れと支配人に命じられた4人の料理人たちが厨房にあるものを使ってパーカッション、アクション、ドタバタを繰り返すというもの。とにかく動きがすごい。特に包丁でキャベツを切りながらまな板を叩いて音を出し踊りまくるパフォーマンスがみものやった。コント風のやりとりもあり、古典的かつ素朴なギャグに好感が持てた。とはいえ、様々なパフォーマンスを見せてくれるもののストーリーに山がなく、せっかくの時間制限の中で料理を作らんならんという秀逸な設定を生かし切れてないのが残念やったけれどね。
 いやしかし、そういう難点もあったけど、こういう舞台をふだん見慣れてない私にはとても新鮮で楽しかった。きっと次に来るときは演出や台本が洗練されてるやろうから、その時が楽しみやね。もっとも、妻が言うように次回公演はきっと入場料が上がるぞ、これは。
 ともかく、またまた妻の嗅覚には感心させられた。次に彼女が嗅ぎ当てるものは何かな。慢性鼻炎で一年中鼻をぐずぐずいわせてる私にはとても無理です。

1月25日(火)

 ああ寒い寒い寒い寒い寒い寒い。なんぼファンヒーターで温めてもちっとも室温が上がらんぞ。窓の外をのぞいたらペギラがいるんとちがうか。誰かペギミンHを持ってませんか。は、何のことかわからん? わからんでもよろしい。

 先週末から、うちの団地の隣にある駐車場のフェンスに力士幟がくくりつけられてた。はてさて相撲は今、両国国技館やのになとよくよく見たら「小桜號」と書いてある。どうやら闘犬らしい。
 それをどこでやってるんか、それがわからへん。例えば町内を宣伝カーが走って「横綱小桜號が来ておりまーす」てなことをしてるわけやない。スーパーかなんかのイベントでやってるんやったら、新聞のチラシにそう書かれているやろうし、チラシを毎日必ず見ている妻の目にとまらんわけがない。いったいあれはなんやろうと見てた。
 で、妻といっしょに出かけた日曜日(いつの話題をしてるんや)、バスからその駐車場を見てたら軽トラで「小桜號」幟を片付けてる。ということは、興行は終わったということなんかな。いつの間に始まっていつ終わったのかまるでわからん。ただ幟がはためいてるのを見てただけ。だいたい「小桜號」が土佐犬なのか軍鶏なのか牛なのか、それもわからん。1028代目の横綱ということは幟に書いてあったからわかった。それだけ。どこで興行をしてたんや。幟だけ立ててんとポスターかなんかはらんか、普通は。えらい商売っ気のない興行やな。
 てなことを書くと「いや実はそれは土佐の闘犬で得意技は……」というようなメールが来たりするかもしれへんね。そら世の中は広い。マニアというのはどんな分野でもいてはるからね。もしご存知の方がいらっしゃったら教えて下さい。

1月26日(水)

 朝、原チャリを走らせていたら、顔になんか小さなほこりみたいなもんがかかる。うっとしいなあと手袋ではらう。次から次からかかってくる。前の軽トラ、何を積んでるんやと見たけれど、ほこりのたつようなもんは積んでない。おかしいな。それにこのほこり、なんか顔にぴりぴりくるぞ。赤信号で止まったら、粉雪が舞うてるやないか。あのほこりは、雪やったんやね。面の皮が厚いのか、あまりの冷気に皮膚の感覚が馬鹿になってるのか知らんけど、顔に雪が付着してて気がつかんというのは初めてや。よくよく見たら、前を走るバスの天井には積もってるのもある。雪を見たら、ますます寒うなってきた。突然気温が下がったわけやない。神経のもんやと思う。雪という物体に神経なるものが反応しておるわけでありますね。
 なんでも沖縄にも雪が降ったとか新聞に書いてあったなあ。ところが、沖縄の人は雪を知らんもんやから、それが雪かどうかが議論になってるとかいうことらしい。それでは神経なるものが寒さを増幅させることもないんでしょうな。それにしても、全国を寒波が襲うておるようやね。今年は暖冬やとかいわれてて、神経なるものが暖かいと信じていたのに、それを裏切って物理的に気温が低うなったもんやから、皮膚の感覚はその寒さをそのまま神経なるものに伝えてるのに、神経なるものはそんなアホなとびっくりして対応し切れてない、というような感じやないか。
 神経なるものせいでよけいしんどいのやなあ。神経のあほ。おまえの母さんでべそ。やっぱりおまえもでべそ。
 自分の神経に喧嘩を売ってどないする。あほとちゃうやろか、私は。

1月27日(木)

 朝起きたら、比較的温暖な大阪府パナソニック市にも雪が積もってるやないか。神経なるものが「寒い寒い寒い寒い」と言うておる。それでも私は原チャリで出勤せんならん。なんと理不尽な。そんなあほな。

 原チャリで走ってると、当然道に沿ってあるもろもろの店などにあまり注意を払ってはおられへん。最近あれれと思うたのは、阪急吹田駅の近くにある本屋の看板の色が変わったこと。むやみに安っぽく派手な色になってるんやね。それでも朝はそんなことを気にしてたら事故を起こしてしまうといかんので、ちらりと目をやっただけで走り抜ける。帰りには多少はゆっくり走ってその看板に視線を移す余裕もある。
 古本屋になってるやないか。確かあそこはごく普通の町の本屋さんやったはず。古本屋というてもあの独特のほこり臭い雑然と本が積み上げてあって奥の帳場で年老いた店主が老眼鏡をずらしながら新聞を読んでいるというような古典的な古書店やないよ。そんな古書店は最近はありませんか。「ブックオフ」やとか「コミックショック」というようなチェーン店と同じような、こざっぱりして均一料金で本を買い取り本の小口にヤスリをかけて均一料金で売ってるような、そんな古本屋だ。
 ううむ。普通の新刊書店ではたちゆかんようになって、そういう古本屋に商売変えをしたんかな。それとも店ごとチェーンに売り払ったのかフランチャイズ契約を結んだんか。どっちにしても、古本屋の方が今どきは儲かるということやねんやろな。
 そういえば、京都の河原町蛸薬師にあるかなり昔からある本屋も最近雰囲気が変わったと思うたら、古本屋になってた。そこはおまけに助平なビデオも売ってる。以前は教育書やら福祉関係やらの本を中心に扱う堅い堅い本屋さんやったのにな。そんな専門書も昔やったら売れたんやろうけど、あそこらへんには大手の売り場面積と蔵書数のやたら多い書店がかたまってるからな。儲からんのやなあ。
 ほんまに新刊の本は売れてないんやろうなあ。特に文芸書と専門書。そうでなかったら、駅前の一等地にある本屋やらその町の繁華街で長らくがんばってきた本屋がそう簡単に商売変えするわけはないと思うね。気晴らしで読むだけやったら、別に新刊で買わんでも100円くらいで古本を買うたほうが得やからね。
 そやけど、新刊が売れへんということは、古本の供給元が減るということでもあるわな。これだけあちこちに均一料金古本屋ができてるということは、それだけ売る人がおるということやと思うんやけど、その本はたいていは新刊書店で買うたものやろう。それがなくなったりしたら、古本屋かて共倒れ、ということになるんと違うやろうか。
 均一料金古本屋はたとえもうからんかっても新刊書店のチェーンも持っておいた方がええかもしれへんよ。新刊書店の赤字を古本屋でカバーする。あ、これでは収支とんとんで全然儲かってないやないか。なんか本屋の先行きは暗いなあ。私も一応ものかきの端くれだけに、気になるところではあるなあ。

1月28日(金)

 フリードリッヒ・グルダの訃報に接する。ウィーン出身の名ピアニスト。ジャズになってないようなジャズをやってみたり作曲をしたりといろんなことをしてるけれど、本領はベートーヴェン。ホルスト・シュタイン指揮ウィーン・フィルと組んだピアノ協奏曲全集は緩急自在で、可愛らしいところは可愛らしく、荘厳なところは荘厳にと見事に弾き分けた絶品やね。若い頃、英デッカ社との多数の録音をして、その中にベートーヴェンのピアノソナタ全集も含まれてたんやけれど、デッカ社がヴィルヘルム・バックハウスという巨匠ピアニストと録音したピアノソナタ全集を優先的に発売した割を食って長く陽の目を見なかった。ちゃんと発売された後もインタビューで繰り返し怒りを表明してたから、もしかしたら結構しつこい性格やったんかもしれへんな。アマデオ社録音のピアノソナタ全集があって、そちらが代表盤としてあげられることが多いけれど、デッカ社との全集の方が勢いがあって、一部モノラルも含まれるけれど、それでもそちらの方が私は好き。
 曲によってはやりすぎというような録音もある。巷間、彼はオールマイティのピアニストのようにいわれてたけど、実はかなり不器用な演奏家やなかったかという気がする。
 とにかく、私はグルダのベートーヴェン演奏はバックハウスのものよりも好きやね。なんかはげを隠すためかけったいな帽子を常にかぶっててトレードマークみたいになってたグルダ。日本公演の際にCD屋に行って、堂々と海賊版が売られてるのを見て激怒していたグルダ。柔軟そうに見えて、実は硬骨漢。個性的な演奏家が、また一人消えてしもうた。
 謹んで哀悼の意を表します。

1月29日(土)

 昨日、学校行事で生徒といっしょに14kmも歩いた。今日もまだ足は痛いけど、驚いたのは腹筋がパンパンに張ってること。歩いているうちに腹式呼吸を激しくしたんで筋肉痛が起きたのか。ふだん私はどうやって呼吸をしておるのか。ああだるい。それでも仕事には行かんならん。なんと理不尽な。まだ言うてるか。

 仕事の帰り、守口市内にある百貨店に寄る。沿線ででかい本屋があるのはここだけ。今週はでかい本屋に寄ることがないので、新刊のチェックはそこぐらいしかない。つくづく文化不毛の地に住んでおるように思う。
 本屋と同じフロアにCD売場がある。ちょっとのぞいてみたら、「徹子の部屋・ベストセレクション」というビデオが並んでいる。「徹子の部屋」なんぞ私にはどうでもええんやけれど、手塚治虫がゲストで出ている回がビデオ化されてたのを見つけたんで、それだけ買う。ちょうどそのCDショップと同じチェーンの他の店でポイントカードのスタンプがつい先日満杯になったんで、それを使うて値引きしてもらえる。
 「あのこれ、使いますんで」とレジで渡したら、店員の女性に「このカードの期限は1年以内になってます。期限切れですけれど、今回だけは引いておきますから、次回からは気をつけて下さいね」などと言われる。反射的に「すみません」と言うてから、はてこの前いっぱいになったときに次回はこれでお買い物をとか店の人に言われたぞと思い、スタンプの日付をよく見ると、「11・11・27」とあるやないか。去年の11月に作ったばっかりのカード、1年どころかまだ2ヶ月しかたってないぞ。ちょっと待て、なんで私が責められんならんのや。店員のねえちゃんが見間違いしただけやないか。
 疲れているときは感情が不安定になる。怒鳴り散らしたいところやけれど、理性を働かせて言う。「今年は平成何年ですか。12年でしょう。これはまだ1年以内です。期限切れやないんと違いますか」。くだんのねえちゃんはどう反応するかというと、「すみません」と一言のみ。あとは事務的にレジを売っている。その態度から『ちゃんと値引きはしているのに何を文句言うてるの、このうるさい客は』というような内心の声が聞こえてくる。ますます腹が立つ。
 「あのねえ、こんなことで私はぐだぐだ言いたないんですけどね、期限切れでないものをちゃんと確かめもせんと『期限切れです』とはどういうことですか。ちゃんと見てから言うてくださいよ」とまあ私も実に紳士的に言うたんやけれど、相手はぶすっとした表情で「すみません」とまた一言だけ返す。
 いますな、自分が悪うて注意されたのに、逆にふくれる人。どういう精神の持ち主なんか、理解に苦しむ。「こんな店二度と来るか」と言いたいところやけど、疲れてるんで無駄なことでエネルギーを使いたなかったのと、いったん暴発したらコントロールがきかんようになりそうやったんで、その言葉だけで抑えて帰った。まあ、あとで他の店員に私の悪口でも言うてるかもしれんぞ、あの態度では。
 私は学生時代さる大手の百貨店で長いことアルバイトをしてて、最後にやめる頃には派遣会社から来たのかと間違えられたくらい接客に慣れてしもうた。その経験からいうても、たとえ実害がお客さんに及ばんかっても、店員がミスしたら、土下座せんばかりに謝るもんやと思うてました。
 文化不毛の地では百貨店の店員教育もなってないんか、と実に不愉快。名札を見たら、あれはあそこのちゃんとした店員やな、アルバイトと違う、とわかる。あれ、わかるようになってるんですよ。派遣社員やとか業者の人やとか、ちゃんと区別してある。ちゃんと店員教育せぇよ、京×百貨店。
 あまりに腹が立ったんで、帰りにコンビニに寄って「仮面ライダーチップス」を3袋買い、帰ってからばりぼりとむさぼり食って昼寝した。コンビニのバイトの方がよっぽとちゃんと接客しておるぞばりぼりばり。

1月30日(日)

 なんとか書評原稿を1編仕上げる。原稿は1日で書けるけれど、そのために2ヶ月毎日のように読書をしているというのは、やはり好きでないとやられへん仕事ですわなあ。

 9年間座敷牢で過ごすということはどういうことかと考える。9歳でさらわれて、19歳になるまで、貴重な成長期を外界に触れることなくテレビばっかり見て過ごし、学校で教育を受けることもなく友人を作ることもなく、ただ一人の人間とだけ毎日顔をつきあわせて生きていくということで、その人間はいったいどれだけのものを失ったかと思うと、恐ろしい気がする。
 新潟で見つかった行方不明の女性は、そういう状況で9年間生きてきたわけやね。小学4年生から高校卒業までの9年間は、想像以上に長いと思う。勉強の方は、これは取り戻せへんこともないやろうけれど、社会生活を営んでいく上での様々な経験は、その年齢のその時期でないとつちかわれへんものやから、これはもう取り戻しようがない。青春を奪われたというのは、まさにこのことをいうんやないかと思う。今から友達を作るにしても、同年代の友達とはなかなか合わんところがでてくるに違いないし、かというて小学生の子どもとも友達にはなられへんやろうからね。
 つまり彼女は変質的な男性のせいで正常な発達の機会を奪われ、その影響は一生残ると、そういうことになる。やりきれへんなあ。
 事実は小説より奇なりというけれど、私はこの事件で手塚治虫の「奇子(あやこ)」という漫画を思い出した。子どもの頃に蔵の中に閉じこめられて成人していく少女を、閉鎖的な農村の戦後史とからめて描いた傑作やけれど、時代背景や人間関係はかなり違うとはいえ、今回発見された女性もまた奇子のように歪んだ環境のもとで成長してしもうたわけだ。
 犯人の男性は司法上どう裁かれるかわからんけれど、法律ではどうにも罰せない罪を彼女に対して負うていると思う。彼女は今後どのように社会適応していくのか。犯人には償うすべなどないやろうな。

1月31日(月)

 せっかくMDプレイヤーを持ってるんやからと、15年以上前に貸しレコードから録音したテープやのなんやのをMDにダビングし直している。まだ書かんならん原稿があるというのに、なにを逃避してるんや。まあええがな。
 で、なにをダビングしたかというと、戸川純のレコードやったりする。今やもう忘れられた存在になりつつある戸川純ですが、80年代始めの彼女はもうそら凄かった。10年ぶりくらいに「玉姫様」やとか「隣の印度人」やら「レーダーマン」なんかを聴いて、改めて凄いなあ、ここまできたらこの世のもんやないなあと思う。
 妻は実は初めて戸川純の歌を聴いたんやけれど「これ、発売された当時に聴きたかった」という。なにしろ玉姫様の中枢神経が子宮に移ったり、レーダーマンになれないあの子が泣き叫びながら連れ去れ家族は嘆き悲しみ彼女は黙って病院の壁を見つめてたり、木の根本を掘って蝉の蛹を掘り出し樹液をすすったりするんやから、たまらん。
 思えばこの時期、私はアイドルと並行して、矢野顕子に戸川純、ジューシィフルーツにシーナ&ロケッツというようなところを好んで聴いていたんやったなあ。しみじみ。
 最近の流行歌には疎い私でありますが、生徒が持ってくるCDなんかで西川貴教やのなんやのと聞かされたりなんかする。ああもう妙に説教臭い歌詞が鼻についてどうしようもない。なんで今はこういう歌が流行るんですか。
 「たぶん」と妻は言う。「80年代は平和やったんやと思う。そやから、危険な雰囲気の曲がいろいろ出てきたんと違うかな。今は、なんか現実に危機的な状況にあるから、かえってなにか安心させるようなものがはやるんと違う?」。ううむ。確かにそうかもしれへん。現実世界の状況とは違う何かを求める、それが流行に結びつく。そういう一面は確かにあるか。
 戸川純あたりはたぶんCD化されたものもあるかもしれへんから、まだ聴いたことのない方は一度いかがですか。80年代始めの、あのわけのわからんもんがうぞうぞとうごめいていた、ああいう時代がまたきてくれへんかな、と思う。
 ついでにいうと、あの時分、私たちの世代は「新人類」と呼ばれてたんですな。なんか気恥ずかしくなるような語感やね。「新人類」のなれの果てが「新人類」と呼ばれてた時代を懐かしむとは。めぐるめぐるよ時代はめぐる。

 明日は所用で遅くなるので更新はお休み。次回の更新は水曜日の深夜の予定です。


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