昨日の日記に書いたアニメ「ノエイン」は、まだダビングさせてやろうという豪儀な方はいてません。たとえこの日記を月曜以降にご覧になった方でも、ダビングさせてやろうという方がいてはったら、こちらまでなにとぞお願いします。
今日はザシンフォニーホールまで行く。4回シリーズであった、イリーナ・メジューエワのピアノコンサートも、今回が最終回。ショパンを中心に、スクリャービン、ラフマニノフ、メトネルなどの小品を組み合わせたプログラムであります。
前回はコンディションが悪く、ついうとうとしてしもうたりしてもったいないことをした。今日は、というと、自宅からJR環状線の駅まで20分ほど歩き、JR福島駅から5分ほど歩きしてほどよく体がぬくもっていた上に、全体に気温が高く、さらにホール内の空調も温度が高めになっていて、適度な疲れが眠気をもよおし……。前半は何曲か夢うつつの状態で聴くことになった。煙草を一服つけて臨んだ後半は眠らずにすんだけれど。
教訓、コンサートに行く時は体がぬくもってもすぐに冷えるような仕掛けの服を着ていこう。そんな服ないですか。
演奏は過去3回と比べてもかなり気合いの入ったもので、最終回を飾るにふさわしいものやったと思う。ちなみに、4回ともアンコール曲はメトネルの「おとぎ話」。さすがに4回目ともなるとメジューエワさんが「メトネル、おとぎばなし」と曲名を告げると通し券できているらしい観客(私たち夫婦もそうやけれど)にはどっと受ける。メジューエワの名誉のために書き添えておくけれど、メトネルの「おとぎ話」は全6曲。彼女は毎回違う「おとぎ話」を弾いていました。
「魔法戦隊マジレンジャー」が最終回を迎えた。家族愛と魔法使いというテーマで1年間戦いは続いたわけやけれど、その前の「特捜戦隊デカレンジャー」が1話ずつのエピソードをかなりていねいに作っていたという印象が強いだけに、どうしても比較してしもうたな。
親子関係や兄弟関係にもうひとつリアリティーがなかったというのが、偽らざる印象やね。おそらく現在の家族をとりまく環境というものを考えて、家族愛というものを子どもたちに身につけさせたいというような意図があったかと思うんやけれど、あまり確たる根拠のない家族愛だけを強調することで、逆にうわべだけのものになっていたんやないかなあ。
魔法の扱いも、別にマニアックに描く必要はないんやけれど、あっちこっちからつぎはぎしてきたみたいで、特に敵に強大な神々が出現したあたりから、そのごった煮なところが妙に気になってしもうた。
いやもちろん、子どもたちが楽しかったらそれでええてなもんですから、例えば朝松健さんの監修が必要やとかというようなことまではいいませんよ。つまりですな、魔法やら神々やら悪魔やらそういうものが好きで好きでたまらんスタッフがメインでいてたらもう少し違うたものになってたんやないか、ということです。こだわりがないのね、つまり。伝奇小説ファンの私としては、そのこだわりのなさが気になったということです。
そうやね、「デカレンジャー」はスタッフがかなり楽しんでたという感じがする。その前の「アバレンジャー」もそうで、敵の怪人ヤツデンワニというマゾッ気のあるキャラクターで思い切り遊んでたし。「マジレンジャー」はいい意味での遊びがあまりなかったかな。あ、「”マジ”レンジャー」やから遊ばれなんだんか。そんなあほな。
あれこれと書いてみたけれど、気持ちが鬱々しているときには何を書いてもあかんな。
書いては消し、書いては消し。
というわけで、今日は日記はパス。
飲み会という選択もあったみたいですが。
飲むと悪酔いしそうなのでパス。
こういう日もあるということで。
すまん。
ところで、「鬱」という漢字は見るからにうっとおしい字やね、こうして見ると。
誰がこんな漢字を考えたんや。
気を取り直して、なんとかお仕事。で、あるけれど、鬱々として楽しまぬ原因が仕事にあるんやから、気を取り直しても新たに鬱々となるわけで。まあ、鬱々が累積しないようにするのがせいいっぱい。
とはいえ、本日は聖バレンタインデーでありまして、ローマ人とキリスト教徒の愛の橋渡し役となった聖人バレンタインが死刑になった記念日やて、嫌な日やね。あ、鬱々としてると悪いことばかり考えてしまう。
手作りケーキを持ってきてくれた生徒もいてまして、もちろん私にだけというわけではなく、その生徒に関わってきた先生みんなにあたったのでありますが、嬉しいものは嬉しいね。
帰宅したら、妻からもチョコレートバームクーヘンをいただきまして(バームクーヘンが手作りやと凄いが、むろん違う)、おいしいものを食べて腹が満ちると、心もほこほこしてきますな。のろけてるように見えますか。のろけています。悪いか。
まあ、ええタイミングで聖バレンタインデーにあたったかもしれんな。天はまだ私を見捨てたわけやなかったぞお。そんな大層な。
新聞によりますとトリノオリンピックではまだ日本選手にメダルがないとかいう話やけれど、他の国の選手かてメダルを狙うてるんやから、そう簡単に手に入るわけやなかろ。
トリノのメダルよりも妻のバームクーヘンです。
比較するような性質のものではありませんか。まあ、堅いこと言わんと。
昨日と一昨日は感情の乱れがくっきりとわかる日記ですね。我ながら読み返すのも恥ずかしい。何があったかなどということはここには書かれませんが、かなりきつい日々が続いているということだけは確かですわ。そんなんやったら日記など書くなと自分でも思う。
ただ、なんでもええから書くことによって少しは気持ちが落ち着くということもあるもので、なんとか書いてみた次第。まあなんというか、お恥ずかしい。そろそろもとのペースに戻さねばね。
心と体は連動しているらしい。帰りに寄ったコンビニで、雨のせいで床が濡れたり靴が滑りやすくなっていたりしたのか、足下が滑った。もう片足で踏ん張ったものの、いわゆる「バナナの皮で滑った人」みたいな感じでこけてしもうた。
ああいう時のコンビニの店員の対応というものは、何なんやろうね。すぐ近くで商品整理をしている店員もいてたのですよ。かなり派手にこけたのに、知らん顔。アホなおっさんが一人で滑って一人でこけたというだけのことかもしれんけれど、マニュアルに書いてない対応はしたらあかんのかね。「大丈夫ですか」の一言があると、気まずくならんですんだんやけれど。一人でこけたおっさんが腰をさすりながら立ち上がると、そんなおっさんはいてないか石ころが転がってるかみたいな雰囲気で、こけたことよりそっちがこたえたな。
昔、「おひさま大賞」の受賞式の控え室で体調を崩してもどしたりしたことがあったけれど、編集さんと妻の他に心配そうに手を出したり声をかけてくれたのは受賞者の方一人だけやった。選考委員の先生方も編集長さんも見て見ぬふり。あとからきいたら声をかけてくれはったのは京都の人やった。
妻とあとから言うてたんやけれど、ああいう時に見て見ぬふりをするのが東京式の気の遣いようかなあ、とね。大阪やったら見知らぬおばちゃんが頼まれもせんのに世話焼きにきてくれるぞ、とね。
今日コンビニから出る時に、その時の事を思い出した。大阪も東京的になってきたんかなあ。
それにしても何もないところであんな風にこけるやなんて、足腰弱ってるねえ。身も心も弱ってるということですかね。
4時間近く願書の受付を休みなしにやると、もうくたくた。ここらで一服つけたいと思うていても、目の前にずらりと志願者が受付を待っていて、その列は廊下のどこまで続いているかわからんという状況では、それもでけん。まあ、それだけ志願者が多いというのは、いくら公立高校とはいうてもやっぱりありがたいことやねんからね。それでもかなりハードワークやったことには違いないけれど。
命の大切さを教えるために小学校で飼育しているウサギが行方不明になったと思うたら、その小学校の卒業生を含む与太者がサッカーボールのかわりにウサギを蹴飛ばし、死なせていたという。
弱い者に対して絶対的な暴力をふるうことで自分のたちのストレスを解消しようとした、ということか。そういう与太者に同情の余地はあらへんけれど、こういうのも階層化した社会のひずみやというような解釈はできる。いわば自分の未来に希望がもたれへん者たちが、その根本的なところを解決しようという気概も知識もなく、なんの抵抗もでけんものに自分たちの不満を叩きつけるということなんかなあ。
それにしても、ウサギを探していた小学生たちにとっては、命の大切さと現実の残酷さをまざまざと見せつけられる結果になったということになるんやろうな。ウサギが殺されたのは理不尽なできごとなわけで、世の中にはそういう理不尽はつきものなんやということを学んでしもうたということになるな。いつかはわかることとはいえ、これはあまりにもえげつない学習と違うかい。こういう時に小学校の先生はどういう指導で子どもたちにあたるんやろう。私がその立場やと、非常に苦しむやろうなあ。理屈では割り切られへんところやもんな。
職場で使用しているノートパソコンの具合がまたまたおかしくなってきて、思い切ってまたOSのインストールのやり直しをする。家で使用しているMacはフリーズすることもなくけっこうしぶとく生きながらえているというのに。ハードディスク自体がくたびれてきているということなんかな。
ということは、修理に出すとしたらハードディスクの入れ替えというようなことをしてもらわんならんことになるなあ。それと新しいのを買うのとどちらが安くつくのかしらん。あと1ヶ月ほどは仕事で使わねばならんので、なんとかだましだまし言うことを聞かせて、来月の半ばにはソフマップかどこかに持っていこう。4月になるとまた使うことになるから、修理に出すなら早い目がええと思うしね。
この3月末まで使うと、まる4年もたせることになる。コンピュータの寿命がどんなもんかは知らんが、サイクルとしてはこんなもんなんかなあ。もっとも、家で使用しているMacは8年半使用しているけどね。これはさすがにCPUが古くメモリの容量も少なく最新のOSはインストールすらでけんという状況になっている。こっちのほうがながもちしているというのはどういうことですか。買い替えるならまずMacという気もするけど。世の中ままならんものですなあ。
今日はPTA主催の卒業記念品製作に参加した。和歌山の日高(「娘道成寺」で有名なところです)から、ログハウスやらログベンチやらの設計や製作をしている方、あるいは林業組合の方など数名を招き、紀州材を使うたベンチの作り方を教えてもらう。というか、もう材木は長さも計って切られ、面取りもすんでいる。我々は機械でやすりを少しかけ、あとは設計図通りに木材を組み上げて木工用ボンドではりつけ、釘を打つだけでええ。とはいえ、釘打ちなんか前任校での「木工」の授業で生徒を手伝うて以来やから、ほんまに久しぶり。
生徒も数名参加してくれて、いっしょに作る。できばえはごらんの写真の通り。しかしこれ実物は写真よりもなかなか見栄えがするんだ。白木の木目の美しさもあるし、丸太を組み上げているから重量感もある。実際、大人2人で運んだけれどかなり重い。
昨年も違う形のログベンチを製作しており、今年は好評につき第2弾というわけですわ。確かに、プラスチック製のベンチをのけてこのベンチを置くと、まるで雰囲気が違う。
それにしても、手作りログベンチのプロデュースというようなことを専門に手がけている人がいてるのは、今日初めて知った。なるほど、ええところに目をつけたもんですな。ログハウスを作るとなると、土地も木材も大量に必要になってくるけれど、長さ1メートルちょっとというサイズのベンチやったら、けっこう需要はあるやろう。しかも組み立てと釘打ちくらいしかしないというても、自分らの手をかけたものというだけで愛着もわこうというもの。誰が最初に考え出したか知らんけれど、ええところに目をつけたもんやね。
それにしてもこのためにわざわざ和歌山からトラックに木材を積んで来てくれてはるわけで、こんなんでペイするんかな。ある方は「趣味でやってるようなもんです」というようなことを言うたはったから、あんまり儲けは出てへんのかもな。
というわけで、材木を持って右往左往したりベンチをあっちこっちに運んだりと、ちょっとばかり体を動かした1日でありました。終ったあと、教科の職員室の応接用ソファーでぐったりとのびておりました。
今日は「たちよみの会」の例会。「アンサンブル」の湯川光之さん、「京フェス」の六角さん、古参会員のYさんが参加してくれはった。以前日記に書いた「ノエイン」のビデオも貸してもらえたし、ありがたいことです。
喫茶店でおしゃべりしたあと、書店を求めて河原町通を北上する。かつては十指に余る書店が存在していた河原町界隈も、「丸善」が閉店し、先月末に映画館改築のために「ブックファースト(旧『駸々堂』京宝店)」が閉店し、昔からあるのは河原町御池の「ふたば書房」だけになってしもうた。「丸善」にしても「ブックファースト(旧『駸々堂』京宝店)」にしても、そこに大きな書店があるのは当たり前やっただけに、京都出身のものとしてはほんまにさみしい。今月末には「ジュンク堂」が河原町に進出してくるから、来月からはそちらに行くことになるやろう。今月は新京極に昨年開店した「紀伊国屋」に行った。地階はフロアも広く、それほど悪い書店やないけどね。
それにしてもあれだけ書店があったのに、あとから進出してきた大型チェーンが残ってしまうというのは、何を意味しているのか。カラオケボックスや総合アミューズメントビル、そして飲食店ばかりが目立ち、若者はええかもしれんけれど、大人のよりつく町やなくなってきたということになるんかな。河原町の変貌は、今の日本の風俗そのものを象徴しているような気がしてならん。狭い範囲だけに、それが端的にあらわれる。ところで「京宝ビル」は改築して何に変わるんやろう。シネコン式の映画館やったらまだええけど、「TSUTAYA」が進出してきて「日本最大規模のレンタルビデオ店」なんかこしらえたりして。まさかね……。
昨日録画しておいた「R−1ぐらんぷり」をやっとのことで見る。1日遅れの感想ということになりますね。
優勝は博多華丸。「パネルクイズアタック25」の児玉清を徹底的にいじり倒すというネタで、とにかく観察眼の細かさとネタの練れ方が出色やった。最下位のキャプテンボンバー(なかやまきんに君)が、個人的には非常に面白かったのに、この順位はちょっと不思議やな。アメリカ的なるものをとことんおちょくっているうえに、破綻すれすれのテンションの高さが心地よかった。
それにしても、いわゆる「ピン芸」は、まだまだこれからという感じがした。漫談でいえば、西条凡児などの「話芸」がちゃんと継承されないまま断絶し、イッセー尾形や九十九一などが登場したものの「一人芝居」としての完成度は高まったけれど裾野が広がらなんだ。この「R−1」をきっかけにして、「ピン芸」の裾野が広がってきたら、よりすぐれた「笑芸」になる可能性は出てくるやろうけれど、今はまだ発展途上というところかな。これからどういう展開を見せてくれるかという点では楽しみはまだまだあるけれど。
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