ぼやき日記


10月21日(木)

 ひつこい風邪やね。朝からくしゃみ鼻水鼻づまり。たまらず市販の風邪薬を飲んで出勤する。これがまたよう効く。くしゃみは止まる鼻は通る。しかし、効きすぎて眠い眠い。睡魔が頭の中にアミをかけにくる。朦朧としながら仕事をする。食事時になって、やっと眠気がおさまってきた。つまりこれは薬の効き目が薄れてきたということで、またまた鼻の調子がおかしくなってきてくしゃみを連発。
 薬を飲めば眠くなる。薬を飲まねば洟が垂れる。とかくこの世は住みにくい。
 薬には副作用がつきものだということはわかっている。生来の鼻炎で洟垂れではさんざん悩んでいる。鼻炎薬にはたいてい眠たくなる成分が入ってて、眠くならん風邪薬は鼻風邪には効かんのだ。わかってても、くしゃみばっかりしてたら苦しいし体力も消耗する。眠気は気力でなんとかなるときもある。そやから薬で一時的に抑える。しかし今日の睡魔はなかなか強敵やった。気力ではなんともならん。冷水で顔を洗うても根本的に眠いのやからすぐまた眠気がぶり返す。
 学生時代に私が書いた作品で、あまりにくだらないので発表せんかったショートショートがあったなあ。徹夜で試験勉強をしていたら睡魔が窓から入ってきて、そいつと必死で戦ってやっとこさ追い出したら夜が明けていたというのを書いたんや。その時に苦労したのは睡魔の姿やね。私は「火星人ゴーホーム」の影響かこういうのが出てくるとつい「緑色の小人」にしてしもたもんです。よう考えてみたら睡魔が襲ってきたら寝てしまうわけで相手の姿なんかわかるわけがあらへん。どなたか睡魔に打ち勝ってその姿を見た方はいませんか。いませんね。
 そんなことはどうでもよろしい。今こうやって日記を書いててもとにかくくしゃみが出てたまらん。その上になんか急に眠くなってきて生あくびが出てこれもたまらん。薬を飲んだわけやないのに睡魔に襲われるとは理不尽な。
 うだうだ言うてんと早いこと寝てしっかり睡眠をとったら風邪も治るし睡魔も襲わんと、ここまで読んだ人は思うやろうね。私もそう思う。早よ寝よ。

10月22日(金)

 興津要さんの訃報に接する。文庫本で古典落語を読もうと思った時、私の学生の頃はこの方が講談社文庫から出していたものしかなかった。でも、分厚くて高かったんで買わんとおったら、いつの間にか絶版になっていた。買うといたらよかったと思うても後の祭り。私が持っている興津氏の文庫は「落語家 懐かしき芸人たち」1冊のみ。これは旺文社文庫やから、やっぱり今では手に入らん。買うといてよかった。最近は「圓生落語集」「志ん生落語集」「文楽落語集」なんかがちくま文庫から出たりしてて文庫版の「読む落語」には不自由しなかったりするけど、その先駆者として興津要という名は記憶されるべきやと思う。哀悼の意を表します。

 若い音楽の先生にCDを貸したら「喜多先生は何枚くらいCDを持ってはるんですか」ときかれて返答に困った。勘定できるような量やないからだ。クラシックのCDだけでもかなり量があるのに、これにアニメ・特撮関係のCD、落語・漫才関係のCDが加わる。アイドル関係のCDはあんまり持ってない。そのかわりシングルレコードやカセットテープはかなりある。これは私がアイドル全般を追っかけてたのがCDに切り替わる直前やったからですな。
 同じような質問でやっぱり返答に困るのが「何冊くらい本を持ってはるんですか」という質問やろうね。今さら勘定もでけへん。
 で、返答に窮した私がどない答えたかというと「レンタルCD屋ができるくらい」と口走ってしもうた。ちょっとオーバーかもしれへんかったな。今思うに「名曲喫茶が開けるくらい」と答えといたらよかった。どうも私はオタク気質のせいか好きになったものはついつい買い集めてしまう。それを手放さんからたまる一方。コレクターやないから、体系的に買い揃えたりはしてない。雑然としている。こんな本やらこんなCDやら二度と読まんやろう聴かんやろうというものもある。またそういうものは「今買うとかんと手にはいらん」と思うて買うたものばっかりで予想通りあっという間に市場から消えてしまってたりするからね。
 あ、「売るほどある」と答えてもよかったな。売らんけど。

10月23日(土)

 今朝の「日刊スポーツ」に「富田勲氏『音が悪いからCD売るな』ジャングル大帝のBGM」という記事が載っていた。これは「バンダイ・ミュージックエンタテインメント」が出した「ジャングル大帝1965-66TVオリジナル・サウンドトラック」という4枚組のCDを指してのことだ。富田氏の言い分では、「テープの保存状態も劣悪。自分が納得できない水準の製品が『音楽 富田勲』と銘打って販売されるのは耐えられない。ファンを裏切ることになる」ということで、CDの販売差し止めを求める仮処分を東京地裁に申し立ててるそうや。(以上、「日刊スポーツ10/23付記事より引用)
 このCD、実は前から欲しかったけど、なんとなく買わずに今日まできていたもの。販売差し止めになる前に買わんといかんと思い、ちょうど外出する用があったんでCD屋に寄って購入した。
 実は、富田氏はRCAから「富田勲の世界」という全て最新録音のCDを出してる。新日本紀行やら大河ドラマのテーマ曲やら、全部録音し直してるんやけど、ファンとしては実はそっちの方が裏切られたように感じたんやけどなあ。音が違うんや。自分が聴いて育った音と微妙に違うんや。むろん、ステレオの鮮明な音で聴くのは悪くない。でも、オリジナル音源には音質の悪さを超えてこっちの胸に響いてくるものがある。それは、当時の感動がそのまま音に直結して残ってるからやと思う。
 この「ジャングル大帝」のCDでいうと、ファンは富田勲の音楽やからというだけで買うんやない。手塚治虫の「ジャングル大帝」が好きやから、「ジャングル大帝」が私たちに与えてくれた全てのものを音を聞くことで味わいたくて買うんやないやろか。実はLPで新たにステレオ録音したものがあって、私はそれも持ってるんやけど「レオのうた」の歌詞が違うたり、オープニングテーマを歌うている歌手が違うたりするので「ほんまもんやない」という思いが残ってるんやね。技術も録音も稚拙かもしれへん。そやけど「ジャングル大帝」というアニメ作品を作るスタッフの思いというものがオリジナルにはこもってるんと違うやろうか。
 箱入りでなかなか重たいCDセットやけど、かなり分厚い解説書がついてて、録音の詳細のデータ、放送リスト、辻真先、山本瑛一、田代敦巳といった当時のスタッフの思い出なんかが掲載されている。この力のいれようを見ても、バンダイがどういう意図でこのCDを発売したかが伝わってくる。
 富田氏の主張は、クリエーターとしては当然の思いやろう。それなりに納得もできる。そやけど、それをファンに転嫁するような発言はしてほしいないなあ。決してこれを聴いてファンは裏切られたという気にはならんと思う。よう出してくれたという人が大半やないやろか。「作曲家として聴くに耐えられない」でとどめておいてほしかった。ファンとしていうならば、「富田勲の世界」に収録された大友直人指揮の「ジャングル大帝」は美しいけどそれだけというもので、どんなに音質が悪くてもオリジナル音源の持つ力には勝てんかったと思うてる。新録音こそファンの思いを裏切ってると、私は思う。
 まあもう私は買いましたから、販売停止にでもなんでしていただいてけっこうですけどね。でも、こういうCDが市場から消えてしまうのはもったいない。

10月24日(日)

 今日は「なみはやドーム」で「民族スポーツフェスティバル」という催しを見に行く。妻とは別々に家を出て会場で待ち合わせをしてたんやけど、私が待ち合わせ場所を間違えたもんやからぎりぎりになって入場するはめに。だいたい今日は頭がどうかしていた。家を出る前に飲んだ薬が効いてきたせいか見ている最中に睡魔に襲われる。こんなおもろいもんを見逃したらいかんと鞄からガムを取り出してくちゃくちゃやっても「寝ながらガムをかんでたよ」と妻に言われたくらいはっきり眠ってしまった。
 それでもいいところはしっかり見逃すまいと必死になってまなこを開く。
 プログラムは、中国の太極拳、アメリカのインディアン舞踊、日本の石見神楽、インドのカラリパヤット、エチオピアの民族舞踊と世界各国の武芸や舞踊を集めてステージで披露するというもの。
 太極拳というのは、動きが鋭いんやねえ。剣を持った演技やら棒を使うた演技やら、ひとつ間違うたらあたって大怪我しそうなくらい。大怪我というと石見神楽もそう。スサノオノミコトの大蛇退治を見せてくれたんやけど、大蛇は花火が仕込んであって口から火を噴く。スサノオ役の人の首筋まで火はきてたぞ。
 カラリパヤットで使うてた武器も独特のもんで、これも怪我しそうになるほど近くまで突きを入れたりしてた。面白いのは、同じ剣を使うのでも中国は円弧を描くように使うのに対し、インドは直線的に突くこと。円の文化と直線の文化というような文化人類学のテーマになりそう。あとカラリパヤットは頭の上につるされたボールをけっ飛ばすという昔CMでやってたのと同じ演技を見せてくれた。
 インディアン舞踊というのはなかなか神秘的な感じがあって、妙に陽気なエチオピア民族舞踊と対照的。エチオピアの踊りは首はそのままにして肩だけを動かしたりする。あれはなかなか難しそうや。
 演技終了後は「ワークショップ」という時間があって、ステージから降りたそれぞれの演者と話したり踊りを教えてもらったりという交流の場が設けられた。これはなかなかいい企画やね。私はインディアンの人につたない英語で「あなたの顔のペイント、なんの意味あるか」ときいたら「この意味は……」と教えてくれはったんやけど、全然聞き取れへんかって困ってたら、向こうはにっこり笑って握手してくれはった。これでは「わたし、あなたにもう一度言うてくださいのことあります」とはきかれへん。
 大蛇のお兄さんは司会の三井ゆりといっしょに写真を撮ってもろてたけど、三井ゆりの実物はそれほど綺麗というわけでなし可愛いというわけでなし、そこらへんにいそうな感じのお姉ちゃんであった。
 しかし、なんで私はなにか見に行ったら眠くなるんかな。どないかならんもんか。カフェインを大量に摂取しておかんといかんのかな、やっぱり。

10月25日(月)

 いやあ、昨日の晩は参った。いくらプロバイダにつないでも認証せんのだよ。おかしいなあ、メンテナンスはついこの前やったのに。こっちの設定がおかしいのかなと何度も確認したけど、壊れてるということもなし。プロバイダの24時間サービス情報に電話してみたら、20時から機械の故障で認証が必要なサービスは全て停止していますときたもんだ。「ぼやき日記」なんかもちゃんと書いて復旧に備えてたんやけど、いつまでたってもつながらん。アップするためには認証が必要やからね。結局昨日の晩は更新でけへんままに寝た。今朝確認したらつながったんで、なんとか更新したけど、私の日記を定時に見てくれている奇特な方もいらっしゃるので、なんか申し訳なかった。別に私のせいやないんやけど。
 実はこの前からちょくちょくソフトウェアの不調とかでサービス停止が続いてたらしい。この前のメンテナンスは2000年問題に対応するためにソフトを入れ替えしてたかなんかやったんやけど、こうしょっちゅう不調になるというのは、2000年になったときにもなんか起こりそうで不安やな。そやけど、今契約しているプロバイダはホームページ用のサーバの容量が大きいのが魅力やからなあ。大丈夫かジャストネット。しっかりしてや。ほんま頼りにしてまっせ。

 CDラジカセのCDプレイヤーの読み取りがおかしくなった。すぐ修理に出してもよかったんやけど、まあパソコンでもCDは聞けるしポータブルプレイヤーでも支障はないし……とほったらかしにしてた。ラジオとカセットテープの部分に問題がなかったらかまへんやん。
 ところが、土曜に面白いCDを買うてきて妻といっしょに聴こうとしたときに困ってしまった。やっぱりCDプレイヤーはダイニングにないとあかんということが明らかになったというわけです。
 そこで、思い切って新しいのを買うことにした。実は前々からMDプレイヤーがほしかったんだ。そやけど、なかなか踏ん切りがつかんかった。どうせやったらこれを機会にMDも使えるのを買うてしまえ。
 というわけで、全国でも有名な量販店に行って買うてきました。いやあ思うたより安うで買えた。ほんまに家電製品の値崩れはすごいなあ。で、ためしにMDにCDやらカセットテープやらあれこれダビングしてみるが、便利ですな。もうカセットテープなんか使われへんね。
 思えば、私のものごころついた頃、テープレコーダーというたらオープンリールのでっかいやつしかなかったもんなあ。親戚筋のお兄さんが持っていて、そこへ遊びに行くとはへたくそな歌を歌うて録音してもらい喜んでたという記憶があるぞ。小学生の頃にカセットテープなるものが発売され、ラジカセをお年玉の貯金を崩して買うたのが中学の頃。そのうちスピーカーがステレオになり、大学時代にはCDが登場してラジカセというとCDとダブルカセットが当たり前になって……。間にDATやなんかが出てきては消えしてたけど定着せなんだんが、MDが普及して、これで一段落ついたかなと思うてるんやけど、DVDやのHDCDやのまだまだ新しいハードが出てきてるもんなあ。
 この間、30年くらいですか。思えば我々は大変な時代に生きてるね。幼少時代を高度経済成長期に送った身としては、技術革新とともに育ってきたといえる。新しいものが出てきたら、それを当たり前のように受け入れて、今では毎日アホなことをせっせと全世界に発信してるわけやからね。ただ、不安になるのは自分がだんだんおっさんになっていくこと。ビデオデッキを操作できないからというて親の世代を笑ってる場合やないぞ。今にどんどん新しいものについていかれへん頑固爺になるかもしれん。幸い、SFという頭が適度に柔らかないとついていかれへん世界に足をつっこんでるから大丈夫や、と。そう信じていたいところではあるけどね。

10月26日(火)

 私はラップ・ミュージックについてはそれほどくわしくない。そやから、今から書くことはラップ・ミュージックが好きな人から見たら噴飯ものかもしれへん。まあ、アホがまたいつものようにしょうもないことを書いてるなあと読み流していただいてけっこうであります。
 と、前振りをしておいたら大丈夫でしょう。
 今日、助っ人で音楽の授業にはいる。V6の「太陽の当たる場所」という曲を聞かせたり「DA YO NE」やらその方言版とを聞き比べたりしている。音楽の先生が若いと教材もなかなか普通の音楽の授業とは違って面白い。とはいいながら、これらを聞いて「和製ラップ」はあかんなと思うた。なにを言うてるのかがわからんのはまあよしとしよう。アクセントもイントネーションも日本語に合うてないところに、実にこのなんともいえん違和感というか気色悪さというか、そういうものを感じたね。あちらのラップのリズムにただ日本語を当てはめただけやん。それでは言葉がかわいそう。「陽の当たる場所」なんか韻を踏んでみたりいろいろと工夫してるんやけど、言葉として生きてないように思うた。
 そしたら「和製ラップ」はまるであかんのかというと、そうやないと思う。昔、まだラップ・ミュージックが今ほど日本で浸透してない頃、実に傑作といえる「和製ラップ」があったのと違うかな。私がこれは面白いと感じたのは、例えばスネークマンショーの「ごきげんいかがワンツースリー」や小林克也とザ・ナンバーワンバンドのタイトルは忘れたけど「きんしゃいきんしゃいハワイにきんしゃい、わしらはみんな広島じゃけん」という歌詞のがそう。あれはリズムやテンポが日本語のそれに合うていたと思う。そのあとで吉幾三の「おら東京さ行くだ」というのがでてきたけど、なんか真似しみたいな気がしたもんです。本場のラップ・ミュージックとは違う日本語ならではの面白さがあった。最近やとLaugh & Peaceの「ちょっときいてな」というのが同一ライン上にあるのと違うかな。
 私は「和製ラップ」の最高傑作は「ドリフの早口ことば」やないかと思うんやけど、いかがでしょうか。実は、ラップ・ミュージックができる何百年も前に日本語によるラップの元祖みたいなもんはあるんやけど。すなわち「阿呆陀羅経」であります。バラクーダが「阿呆陀羅経」を現代風にアレンジした「チャカ・ポコ・チャ」という怪作があるのをごぞんじか。
 「和製ラップ」は「阿呆陀羅経」と早口言葉から学べ! というとんでもない結論に達してしまいました。ラップ・ミュージックが好きな人は、やっぱり怒るかな。

10月27日(水)

 今朝の新聞に「新型アイボ1万体発売」の記事を見かけて出かける前に、妻に「どうする?」ときいてみた。あ、「アイボ」というのは、犬型のロボットのことです。説明するまでもないか。
 なんでそんなことをきいたかというと、妻はTVでアイボが出てくるとは「きゃー、アイボやー」と大喜びするくらいで「アイボの肉球にさわりたいー。にくきゅううううう」と悶え苦しむほど好きやねん。そんなに好きやったら、ほしいかなと思うてきいたわけだ。
 妻は「いくら?」とききかえす。25万円やというと「もうちょっと値下がりせーへんかな。25万円あったらパソコンの1台も買えるし」と逡巡している。
 日米欧世界中合わせて1万体ですがな。抽選は実に倍率の高いものになるやろし、はずれることを承知で申し込んでみたらどうかな。「当たったらどうするの」。そら買わななあ。「買うの?」。せっかく当たったんに買わなんだらもったいないやんか。
 抽選というのは、当てようと思うと当たらんけど、ハズレやと気軽に申し込んだら当たるもんだ。特に転居のつもりもないのに付き合いで住宅を申し込んだら当たって大慌て、結局家を買うことにしたというような例もあるやろう。そうなったらどないするねん。そしたらやめとこか、というような話をしてから家を出る。
 仕事が終わって帰ったら、妻は「当たったらお金は誰が出すの?」などという。わかりました、申し込みますよ。やっぱりほしいんでしょう。お金は私が払わんとしゃあないやないの。妻はアイボの真似をして「ハーイ」と手を動かしたりしてる。まだ申し込みもしてへんのに、ほんまにもう。
「あのな、当たったら40万円くらいで転売するねん。色をつけて38万円でもええかな」。
 好きにしなさい。当たるわけないんやから。
 でも、ほんまに当たったらどないしよ。当たらん当たらん。

10月28日(木)

 今日は遠足。能勢町にある「おおさか府民牧場」へ行く。最近開園したばっかりというところで、羊やら山羊やら牛やらウサギやら鶏やらを飼うていて、餌をやったり触ったりできる。子供たちと自然のふれあいというふれこみのところ。
 山の中やから、空気はうまいし緑にも囲まれてる。広さも程良く、遠足には最適なところやった。そう、遠足やレジャーのための施設なんでありますね。「牧場」というても、なにかを生み出すために作られたものやない。羊も山羊も牛も実に人間に慣れていて、生徒たちが手にした餌をぱくぱく食べる。子どもが与える餌を食べるという芸を仕込まれているといった風でもある。なにも食べてないからおなかが減ってる。そやから餌を差し出されたらすぐにぱくつく、ということなんかなあと思う。
 こういう「牧場」は全国各地にあるし、こういう場所があるおかげで生徒たちにふだん触ることのない、いや、お目にかかることもない動物と接触する経験をさせられるんやから、ありがたいと思う。反面、こういう慣れた動物にだけ接したところで、ほんとの動物の姿がわかるんやろかという疑問もある。
 他の学年では、栗拾いにいったところもある。その農園ではあらかじめいがから出した栗を栗林にまいて拾わせてるということだ。それはそれで楽しいけど、栗拾いというのはそういうもんやと思いこんでしまう危険性はあるのと違うやろうか。
 観光資源を作り出すために、農園もあれこれ考えているわけで、それを否定するつもりはないけど、ほんまもんはもっと違うんやでということも同時にわからせるような工夫というもんはないんやろうか、と思う。
 そやからというて、せっかくの秋の遠足、少しでも自然を感じさせる場所で安全なところに連れていってやりたいとも思うしね。難しいところであります。

10月29日(金)

 本屋のコンピューター雑誌のコーナーの前で、おっさんが二人大声で「これはiMacに入ってるから、それをインストールしてやったら何がああ動いて」。やかましい。店中に響く大声で、あれは自分がiMacを持ってるという自慢なんかね。わかったからもっと小さい声で話をしなさい。見苦しい。

 食後、妻と話をしていて風呂の話題になる。
「お風呂は壁が反響するやん」。
 壁なんか反響せえへんがな。あれは声が反響するの。
「あなたは悪うないの。この口が悪いの」。
 なに言うてるん。声が壁に反響するんでしょうが。
「小さいときから理屈を言うては大人に怒られてたでしょう。友だちに嫌われてたでしょう」。
 あなた、ようわかるね。小さいときから一言多いと言われてばっかしやったよ。
 そやけど、壁は反響せんでしょう。
「まだ言うか」。
 でもなあ、壁が反響したら恐いよ。風呂に入ってあーとか言うたらいきなり壁が反響してどっすんどっすんばりばりばり。
「うわあ、それはほんまに恐いわあ」。
 そう言うてその情景を思い浮かべ、一人でげらげら笑う妻でありました。

 今日はしんどいんでこれくらいでかんにんして下さい。おもろないですか。そやからかんにんしてと言うてるでしょう。ほんまに聞き分けのない子やこと。

10月30日(土)

 年々プロ野球の「日本シリーズ」に対する関心が薄れつつある。特に今年はニュースですら見てない。あんたそれでもプロ野球ファンかといわれそうやけど、それには理由がある。
 ナイターというのがよくない。この時期に夜に野球をやったらあかんと思う。今年は両チームがドーム球場やったからそれなりに空調もきいてたかもしれへんけど、夜の冷え込みがきつくなってるのに選手に負担を強いるのはいかがなものか。TVの中継の関係でナイターにしたんやろうけど、そんなものの都合でしか物事が考えられへんというのは、選手を財産と思うてない証拠やないか、と思わずにはいられん。
 優勝決定から1ヶ月近くもあいてるという日程もよくない。ペナントレースの興奮がすっかり冷めてからやるのはいかがなものか。ドラゴンズのシーズン終盤の勢いは、この間すっかりそがれてしもうた。優勝というのは、人知を超えた力が働いてるんやないかと感じるくらい思いがけないムードが生まれる。それが持続している間に選手にシリーズをやらせてやりたい。今年の日程やと、まるで日本シリーズはおまけやないか。日米野球の時期ですよ、普通は。
 高校時代、ポケットラジオとイヤホンで授業中にこっそり聞いたカープとバファローズのシリーズ。大学時代、生協の入り口においてあったTVで授業にも行かずにずっと立ちっぱなしで見ていたライオンズとジャイアンツのシリーズ。全部録画しておいてもろうて結果が分かってるのに必死になって見たタイガースとライオンズのシリーズ。
 少しずつ影が長くなっていく秋の日差しにつつまれた中でのプレイやからこそ、ああ、これで今シーズンも終わるなあという感慨があったように思う。
 そういう感慨も呼び起こしてくれない、間延びした日程のせいで興奮もさめてる。ひいきチームでも出てへん限り、一度切れた気持ちを野球に向けるのは難しいね。

10月31日(日)

京都まつりの平成女鉾
 今日は夕方から「京都まつり」を見に京都市役所前へ。
去年は大阪市立大学から大移動して見に来たのですが、今年はスケジュールがかぶらんかったんで家から直行。もちろん平成女鉾のお囃子をきくのが目的。なぜそれが目的になるのかはここを読んで下さい。
 例年鉾を立てているのに、今年は立てられへんかったそうだ。なんでかというと、いろいろ事情はあるけれど、要は予算がなかったと、そういうことらしい。なんでも1回鉾を立てるのにかなりのお金が要るんやそうです。いくらか、という具体的なことはちょっと書かれへんのやけれど、企業などのスポンサーに頼らんととても出せん金額やそうな。パレードには屋形を借りてその上でお囃子を演奏したんやけれど、これも借りるのはけっこうかかったということで、何事にも先立つものはほしいねえ。
 そんなことはおくびにも出さず、彼女たちは祭りを盛り上げていた。彼女たちの出演時間ぎりぎりに行ったもんやから、ステージの近くには行かれへんかったんで、写真もご覧の通り、かなりぼやけたものになってしもうた。まあ少しは雰囲気を感じ取っていただければ幸い。
 そろそろもう少しええデジカメがほしいなあ。ズームのついたのとかフラッシュのついたのとか。私の今持ってるのは「別冊宝島」の懸賞で当たったやつやから、ぜいたくはいわれへんのやけど。もう2年半もたつと、すっかり型が古くなってしもうたなあ。
 ええい、話がそれた。
 妹たちのお囃子が終わったあと、実家の両親と合流して夕食。食事の前は「えらい人出が多いなあ」「祭りやから当たり前やん」などと軽口を叩いておったんですが、居酒屋を出る頃にはなんかもう人の波がひいてしもうて、通りによっては閑散としている。大阪の繁華街と京都の繁華街の違いはここらへんかな。とにかくしまうのが早い。田舎の商店街とまではいかんけど、それに近いものがあるね。まあ京都の場合、ものを売る店と飲みに行く店のテリトリーがかなりはっきり別れてるということもあるんやけれど。


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