ぼやき日記


2月1日(日)

 なんとか「S−Fマガジン」の原稿を仕上げる。このサイトの「読書感想文」を引き写しにしたようなものを書くわけにはいかないと自戒しているだけに、なかなか難しい。結局は言いたい事は同じで表現が若干変るだけになってしまうのだけれど。

 昨日、所用で京都へ。「ジュンク堂京都店」に寄る。「光の帝国 常野物語」をまだ入手していないのだが、ここでも見つからない。けっこうあちこち探したのだ。あとは駅前の書店で注文するしかないか。ぜひ読みたいのだがなあ。
 で、3Fの文庫売り場などをまわる。通りすがりのカップルの会話がふと耳にはいる。男性が女性にこう言っていた。
「俺って、上昇指向やから、欲しいと思ったものは買わずにはいられないんや」
 ちょっと待て、そういうのを上昇指向というのだろうか。上昇指向というのは何か高いところへ行こうという姿勢のことを指す言葉ではないのか。
 どういう流れで発せられた言葉かわからないのであえて追及はしないが、この場合、「欲しいと思ったもの」というのはおそらく本であろう。どんな本だかしらないが彼にとって本を買うことは「上昇」する事のひとつなのかもしれない。私のように毎日毎日ばかすか本を買う人間といっしょにしてはいけない。こちらが「たかが本を買うくらいでたいそうな」と思っても、彼にとっては大きな意味を持つのだろう。しかし、そんな事を(たぶん)彼女にわざわざ言うというのはちと情けないように思うのだが。
 事情はどうあれ、なんだか引っかかる言葉でありました。

 昨年10月25日の日記で「平成女鉾」について書きましたが、そこで女鉾の援助をしている鉾町を誤って「菊水鉾」と書きましたが、正しくは「函谷鉾」でした。関係者の方々にはご迷惑をおかけしました。申し訳ありません。日記の方も訂正しておきました。

2月2日(月)

 明日は節分。寿司屋の前を通ると「巻ずしまるかぶり 恵方に向かって巻ずしをまるかぶりするとその年家族全員が息災でいられます」といったようなポスターが貼ってある。よくまあこんな事を考えだした人がいるものだ。だいたい節分に海苔巻きがつきものなど昔から聞いた事がない。「広辞苑第四版」(岩波書店)を「節分」で引いてみる。
「1.季節の移り変わる時、すなわち立春・立夏・立秋・立冬の前日の称。2.特に立春の前日の称。この日の夕暮、柊の枝に鰯の頭を刺したものを戸口に立て、鬼打豆と称して炒った大豆をまく習慣がある」
 海苔巻きなんぞどこを探しても出てこない。サーチエンジンで調べてみたが、「京都では福を巻くという意味で海苔巻きを食べる」だの「大阪ではこの日に巻き寿司を食べる」という記述はあるもののその根拠を示したものはない。私の両親は京都市の中央、中京区の育ちだが、もともと京都にあったなら私は子どもの頃から海苔巻きのまるかぶりを知っていてもおかしくはない。妻は大阪だ。むろんそんな風習で育ってはいない。
 とうとう探り当てたのが、「のり巻きの日」。これがなんと2月3日なんですね。制定したのは「全国海苔貝類漁業協同組合連合会」なる団体。残念ながらホームページは作っていない。1987年に制定したという。ほんの10年前のことだ。これなら平仄が合う。鶏が先か卵が先かは知らないが、誰かが寿司業界にも季節もののイベントを考え、それに合わせて「のり巻きの日」を節分の日に設定したものと思われる。
 しかし、「節分」「恵方」「家族の息災」と見事にツボを押えたものだ。こんなふうに宣伝されたら、演技をかつぐのが好きな人たちはすぐに乗るだろう。そば屋には年越しそばがある。鰻屋には土用の丑の日がある。ところが寿司屋にはそういう日はなかった。もしかしたらどこかの地方にそういう習慣が合ったのを見つけだして全国展開したのかもしれないが、これで年に一回寿司屋に人が並ぶ日ができたというわけだ。
 「のり巻きの日」が制定されて今年で12年目となるのだね。ちょうど干支も一回り。この習慣、見事に定着したわけだ。しかしなあ、海苔巻きなんて切らないと食べにくいでしょうが。まるかぶりなんてお行儀の悪い事をすすめるというのは感心しないぞ。私はそんな宣伝には乗らないのだ。豆を数え年に1加えた数だけきっちりと食べる。それで十分ではないか。
 ま、それはともかく、世の中には頭のいい人がいるものであることよ。

2月3日(火)

 今日は学校でマラソン大会。吹田市の陸上競技場を借りて一周400mのトラックを30分間走らせる。毎朝伴奏している生徒といっしょに走る。10分交代で他の教師とリレーをするように走ったが、たった10分間でもすぐにばててしまう。最近運動をしていないとかいう問題でなく、中高生の時期に体育の授業以外の運動をしていなかったツケがまわってきたというべきか。
 トラックの内側では老人会がゲートボールをしている。貸し切りとうわけにはいなかった模様。生徒が走っている横でカンコンカンと木槌でボールを叩く音がするというのも、なかなか奇妙な風景で面白い。
 しかしまあ、疲れました。

2月4日(水)

 文部省の諮問機関である中教審が最近頻繁に起こる中高生のナイフによる殺傷事件に対し、「家庭のふれあいを大切にしよう」というような意味の声明を出している。学校教育の現場だけでは対処しきれない事態であるという認識のようである。家庭でのふれあいがないので子どもたちに歪みがでてきていると、こういうわけだ。
 今さら何を言っているのか。学校教育と家庭教育は本来別個のものであるのに何から何まで学校や教師にやらせるようにしてきたのは文部省ではないか。やれ「道徳教育の重視」だの「ゆとりの時間」だのと本来学校がやらないでもいいことをどんどん指導要領に盛り込んでおいて、それでも問題が解決しないどころか思いもよらぬ方向に進んできたので今度は家庭にまで指図をするはめになってしまった。いったい文部省に家庭教育に口を出す権限があるのだろうか。
 私が中学校で担任を持った時、思春期分裂症と呼ばれる症状の兆候のある生徒を受け持ったことがある。学校だけではなんともならない。保護者と何度も話し合いを重ねた。保護者は新興宗教に入信しており、自分が信仰を深めることで子どものことも解決するようなことを言う。それに対して教師が口を出せば出すほど保護者はかたくなになってしまう。
 中教審は簡単に声明を出してくれるが、現場の教師ですら、家庭の教育方針には口出しはできないのである。また、すべきことでもないのである。だいたい問題を抱えた家庭ほど、自分たちには問題がないと思っている。問題を直視できないので問題などないと思いたいものなのだ。そういう家庭に今回の声明がどれだけ届くと思っているのだろうか。
 とりあえず体裁を整えるために声明を出すくらいなら、出さない方がましというものではないだろうか。

2月5日(木)

 2月2日の日記に書いたが、節分の日に海苔巻きをまるかぶりするという風習について、その出所がわかったのでここに記しておく。
 大阪の商家では五、六十年も前にこういった習慣があったというのだ。2月5日付けの「日刊スポーツ」(大阪版)で黒田清さんが書いている。同紙の名物コラム「ニュースらいだー」から引用する。
「私は大阪の商家に育ったから、小さいころからこの風習が身についていた。
『今年の恵方は南南東や。そっち向いて食べるねんでぇ』
『食べ終わるまでモノ言うたらアカンよ』」
「この風習は、戦後一時すたれていたのだが、大阪のノリ屋さんが売れ行きを伸ばすために流行らせたらしい」
 商家というのはゲンをかつぐものである。したがってこういう風習があったというのも納得できる。いやいや知らぬこととはいえ大見得を切ってしまって恥ずかしい。とはいうものの、これはおそらく大阪の商家にだけあった風習なのではないかと思う。
 実は京都の老舗の若旦那、A氏にも確かめたのだが、彼の家にはそういう風習はなかったそうだ。創業文政年間という老舗であり、戦火に焼けたわけでもないから、もしそういう風習があれば伝わっているはずである。妻の実家の親戚には庄屋の家系がある。ここも古い風習を伝えていると思われるが、その妻も知らなかった。つまり、かなり限定された地域の風習だったわけである。
 それを一般化して海苔巻きの売り上げを伸ばした大阪の海苔屋は前回も書いたようにやはり頭がいいといわねばなるまい。
 ところで、これに関しては「大阪ものしり事典」(創元社)、大谷晃一「大阪学 正・続」(新潮文庫)も参照したが、全く載っていなかった。織田作之助や山崎豊子の大阪小説を読んでいればもしかしたらわかったかもしれないが、私の読書範囲の外であった。こういうことは「事典」だの「学」だのを名乗る本にこそ書かれてしかるべきであると思うのだが、どうであろうか。そういえば、上方落語で節分に海苔巻きを食べる噺というのも聞いたことがない。もしご存知の方がいらっしゃったらご教示願いたい。

2月6日(金)

 1月23日の日記で「トマト」の歌について書いた。私は知っているが若い人は知らず、世代間格差かと思いきや、同世代である妻も知らないという。そこでご存知かどうかを訊ねたところ、私が思っていたより反響があり、10名の方からメールをいただいた。
 さて、その結果の方だが、「知っている」とおっしゃる方が5名、「知らない」とおっしゃる方が5名ということになった。いろいろとデータを書いていただいているので、その傾向をつかむこともできた。せっかくなので、いただいたお返事を全てご紹介することにする。
 まずは「知っている」と答えて下さった方から。
 寺館伸二さん「件の『トマトの歌』ならびに『犬のおまわりさん』、『おなかのへるうた』…は、私は存じております。NHKの『みんなの歌』あたりか、それともなにかのコマーシャルだったのかは、あいにく記憶がはっきりしませんが。ちなみに私は現在38才、産まれと育ち(高校まで)は北海道の片田舎であります」。
 愛知の曲直瀬さん「ぼくも子供の頃はよく聞きました。もっとも童謡や唱歌だったのか、NHKのみんなの歌で聞いたのか覚えていませんけど」。
 タニグチリウイチさん「えっと、たぶん知ってる、と思います『トマト』の歌。でもどんな歌だったのか思い出せない。聴けば一発、なんですけど。『どうしておなかがへるのかな』『まいごのまいごのこねこちゃん』はよく知ってます。『山口さんちのツトムくん』は特定の世代にとっての流行歌、なんでしょうね」。
 岡田純一さん「4月に26になるものですが、いちおう、しってます。テレビで見たような思いがあるので、「みんなのうた」あたりで放送していたのかもしれません。たぶん、小学校あがる前のころに聞いたとおもいますんで、20年以上は前のはずです」。
 新井勝彦さん「ところで『トマトの歌』ですが私は知っています。ちなみに私は現在28才の関東育ちです。私の記憶ではこの歌は20年ほど前、テレビ『ママと遊ぼうピンポンパン』で歌われていたはずです。童謡などはテレビで流れていたかで知名度が違うんじゃないでしょうか(また地元で番組が流れていたかでも)」。
 続いて「知らない」派の方たち。
 junneさん「私はそのうた、知りません。因みに年齢は22です。『いぬのおまわりさん』は勿論知ってますが、『おなかのへるうた』というのは『どうしておなかがへるのかな』ってうたですか? だったら知ってます」。
 風野春樹さん「私は知りませんでした。全然聞いたことがありません。『犬のおまわりさん』と『おなかのへるうた』(どうしておなかがへるのかな、っていう歌ですよね)なら知ってるんですけど。これは世代的ギャップでなければ、地域的な差なんでしょうか。もしかすると、関西方面ではテレビでよく流れていたとか。ちなみに私は、神奈川県出身の29歳です」。
 真田則明さん「えー、大中恩は知っていますが、トマトは知りません。大中恩は主に戦後歌曲、合唱曲などを作曲した人として知っています。大中恩の名前は、合唱をやっていて知りました。でも『いぬのおまわりさん』とかもそうじゃなかったかな。←これはうろ覚えです。えーと、背景情報としては、35才(SFファン団塊の世代)男性です。幼稚園は東京、小学校低学年は福岡でした」。
 近藤雅子さん「私が1票投じますのは『トマト』の歌は知らないほうです。『犬のおまわりさん』とか『おなかのへるうた』は知っています」。
 野田幸助さん「このうた、ぼくは知りません。5歳と2歳の娘がいるので、童謡はよく聞くのですがそれでも知りません」。
 以上のお便りから推測するに、「トマト」の歌は今から20年ほど前にNHK「みんなのうた」などで歌われていて、この番組を見ていた人は地域差は関係なく(全国放送ですからねえ)覚えている。私の記憶では「おかあさんといっしょ」で歌われていたのだが、NHKだからどちらの番組でも歌ってたのだろう。しかし、「いぬのおまわりさん」や「おなかのへるうた」はその後もレコードに収められたり歌い継がれていったのに対し、「トマト」はその時限りで歌われなくなってしまったようである(例外として「ピンポンパン」で歌われた可能性がある)。したがって、世代間格差もあるし見ていたテレビ番組の違いもあるということではないだろうか。
 これで、「トマト」の歌に関する引っかかりはなくなりました。情報を下さったみなさん、本当にありがとうございました。
 ところで、野田さんは「だいだらぼっち」の歌を娘さんに歌い聞かせていらっしゃるそうだが、その歌のCDは見つからなかったそうだ。「だいだらぼっち」の歌は私も知らないなあ。これも「みんなのうた」らしいのだけれど。

2月7日(土)

 2月2日および2月5日の日記で「節分の海苔巻きまるかぶり」について書いたところ、思わぬ波紋があったので、しつこいけれどもここに書いておく。
 にしかわなおみさんという方からメールがあった。2月2日の私の日記を読んだ彼女は1987年に”全国海苔貝類漁業協同組合連合会”によって「のり巻きの日」が制定される以前からまるかぶりをしていたが、私の書いた内容を見て驚き、ご自分のサイトの日記にてそのことに触れられたそうだ。それに対して「私は昔からまるかぶりをしていた」というメールがいくつか届き、反響の大きさに驚かれたという。にしかわさんはご自分の日記に「ぼやき日記」で読んだということを明記していなかったため、わざわざそういうことがあったと知らせてくれた上で、出所を明らかにせずに自分のページで紹介したことを謝罪するためにメールを下さったのである。
 謝るのはこちらの方で、よく調べたつもりとはいえ最終的に根拠がわからないまま日記に書いたこちらに責任があるのは明白である。
 昨日、カウントが9000をこえて喜んだりしていたのだが、それだけ多くの人に読んでいただいているわけだから、こういうことが起きるのは当然なのだ。どなたに引用していただいてもびくともしないよう、こころして書かねばならないと自戒した次第。
 ご迷惑をおかけした皆様方に、おわびを申し上げます。
 いやしかし、一部の地域にのみ行われていた風習がこれだけひろまったということの証拠ではないだろうか。まったくたいしたものである。

2月8日(日)

 日頃テレビドラマなど見ないのだが、NHK大河ドラマだけはここ数年欠かさず見ている。歴史が好きということもある。1年間じっくりと時間をかけて話をすすめていくため、てまひまかけたぜいたくな作りになっているのが楽しいということもある。だが、それ以上に楽しみなのは配役なのである。
 NHKというのは面白い局で、旬の役者やタレントを鮮度が落ちる前に起用してるかと思うと、この人はまだ芸能界にいたのかと思うような人をひょいと起用して成功させたりもする。歌舞伎役者、新劇の舞台俳優から小劇場の俳優、笑芸人にいたるまで、幅広いジャンルから配役できるのも強みである。
 ただし年によって当たり外れがあり、一昨年の「秀吉」は脚本が悪いのか演出が悪いの知らないけれどおかしなシーンが続出し、主演の竹中直人が痛々しかった。昨年の「毛利元就」は脚本の勝利というのか、実にわかりやすく面白いものになっていた。これはだいたい隔年で出来不出来の差が激しかったから、今年の「徳川慶喜」にはあまり期待しなかったのだが、意外に面白い。特に菅原文太と若尾文子の夫婦というのがコンストラストがあまりにも違っていて、いい。俳優は例年に比べると比較的地味だが、それぞれいい味を出している。原作は司馬遼太郎の「最後の将軍」。実は数年前の「翔ぶが如く」でもこの小説は原作として使われていたのだ。料理の仕方の違いを見比べるという楽しさもある。
 先頃来年分の製作発表が行われたことを新聞で読んだが、中村勘九郎を大石蔵之助に配してまたまた「忠臣蔵」をやるそうだ。昔は景気が悪くなると映画館は「忠臣蔵」をかけて観客の足を引き止めたという。まさかその縁起をかついだのではないとは思うが、なぜまたわざわざ勘九郎で「忠臣蔵」を作る必要があるのかよくわからない。いっそ朝松健の「妖臣蔵」をやってくれないものか。いやいや正義の味方を妖怪の手先にしてしまったような小説を1年間もかけてドラマにしたら視聴者にそっぽを向かれてしまうか。

 2月6日の日記で寺館伸二さんの名前に誤りがありましたので訂正しておきました。申し訳ありませんでした。

2月9日(月)

 学校に警察から婦人警官と護身術の先生を招いて防犯教室を行う。着ぐるみによる寸劇があり、誘拐防止啓発のVTRを見せてくれる。このVTRがなかなか面白い。
 「由美ちゃん危機一髪」とかいうアニメーションである(正確なタイトルは失念した)。
 小学生の女の子、由美ちゃんがTVゲームをしていると、そのゲームの世界に入り込んでしまう。その世界では魔王を倒すバトラーとして由美ちゃんは出現する。エアカーに乗ってきた優しそうな男が新たな敵を倒さなければならないといって彼女をエアカーに連れ込もうとするが、サイドミラーに写った男の姿は魔王の配下であるモンスターであった。
 由美ちゃんを誘拐するエアカーをバトラーたちが追う。カーチェイスがあり、バトラーたちは無事由美ちゃんを救出したのであった。彼らは由美ちゃんに、誘拐されそうになったら大声で助けを求めるように教える(ここらが啓発アニメ)。
 現実世界に戻った由美ちゃんはお母さんにお使いを頼まれるが、その帰り道に全く同じシチュエーションで彼女を誘拐しようとする男があらわれる。自動車に無理矢理のせられようとする彼女はゲームの世界でのバトラーの言葉を思い出し、大声で叫んで近所のおじさんたちに助けられるのだった。
 いやいや警察もがんばっていますねえ。婦警さんが手早くスイッチを切ったために製作会社やスタッフの名前を確かめることができなかったのが残念。今の子供にアピールすようなアニメにしてくれと製作会社に依頼したのだろうが、話が単純なのは仕方ないとして、演出などかなり好き勝手をしていて実に楽しめた。従来は後半部分のお使いを頼まれてからというところだけを子役俳優を使って実写で撮ったものなんかを見せてくれたりしていたが、いかにも説教臭くてあくびの出る代物であった。警察も時代に応じたものを依頼するし、製作会社もけっこう楽しんで作っているようだ。
 声優は由美ちゃんにこおろぎさとみ、そのボーイフレンドに山田栄子といったところを起用している。あのVTR、ダビングさせてもらえないものか。きいておけばよかった。SFコンベンションに持ち込んで上映したら受けるだろうに。どなたか警察にお勤めのSFファンの方、いらっしゃいませんか。次の京フェスあたりで上映会なんて、どうでしょうか。

2月10日(火)

 冬季オリンピック長野大会でスピードスケートの清水宏保選手が金メダルを獲得した。大会新記録での優勝ということであるから、素晴らしいことである。それはいい。しかし、アナウンサーが「日本中が待っていたこの瞬間!」などと叫ぶのは言い過ぎである。日本中ということは、当然私もその中に含まれることになるのだろうが、残念ながら私はその瞬間など待ってもいなかったし、清水という選手がいることもここ数日の報道で初めて知ったぐらいだ。勝手に決めつけて欲しくない。
 スポーツ選手が全力を出して勝利に向かう姿は美しい。しかし、それを「国家」という枠でひとくくりにするのは嫌だ。しばらくしたら「国別のメダル獲得数」などという表が新聞紙上で公開されるのだろう。アホか、と言いたい。個別の競技は個人戦であり、「日本」というチーム全体の団体戦ではない。メダルの栄誉は個人に帰せられるものであり、国家の栄誉ではなかろう。旧社会主義国のように国際大会でメダルを獲得させるために国家的プロジェクトを組んでいるというのであればわかるが、幸い日本はそうではない。たいていは企業や学校に所属していて国の補助などないに等しい。その中で選手が自分のために体を鍛え技量を磨き国際大会でその結果を問うのである。
 「日の丸」「君が代」を普段は忌み嫌う人々も、なぜかここでは文句を言わない。表彰式に乱入して「日の丸」に火をつける奴が出てきてもよさそうだし、会場で「日の丸の押し付け断固反対」という横断幕を張る団体がいてもおかしくないと思うのだが、見たことがない。日頃から主張していることを世界中に知らしめる絶好のチャンスなのに、何をしている日本共産党。「赤旗」でのんきに「清水、金メダル」なんて書いている場合ではないぞ。
 「平和の祭典」というのならば、つまらないナショナリズムを廃するところから始めるべきではないか。少なくとも自分の好きなスポーツに打ち込んでいるだけの選手に国家の威信を背負わせるというアホくさいことはやめにしてもらいたい。
 世界でもトップクラスの競技者によって勝敗が争われる、その素晴らしさを讃える。それではいけないのか。少なくとも私にとってはこの大会で日本人が全ての金メダルを獲得するよりも、阪神タイガースがAクラスにはいること、いやいや読売ジャイアンツに一つでも勝つことの方が嬉しいのだ。それは関係ないか。


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