ぼやき日記


6月1日(月)

 今朝の新聞で、新たに立体の看板も商標登録できることになったという記事が載っていた。第1号として「不二家のペコちゃん」「ポコちゃん」「ケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダース」などが商標として認められたそうだ。
 しかし、やっと今ごろという気がしないでもない。もしかして、これまでは自分の店の前にカーネル・サンダース人形を置いて商売をしても看板の無断使用で訴えられることはなかったということなのか。それもなんだか変な話だ。
 商標登録というと思い出すのが、山藤章二さんがエッセイの挿絵で書いていた話。
 「ライオン歯磨」は「LION」という商標を登録すると同時に「NO17」という商標も登録したのだそうだ。他社が「NO17」という商品を作り、小売店にわざとひっくり返して並べて売ったら……。その会社が「NO17」を商標として先に登録してしまったら……。
 この話を読んだとき、商売の厳しさを改めて感じたものだ。
 不二家だって明治や森永の店の前にペコちゃんやポコちゃんを置かれたらたまらんわな。
 ところで、今回1500件の申請があったうち、認められたのはたったの5件。はねつけられた中に大阪の顔、「くいだおれ太郎」もあったという。なんということだ。カーネル・サンダースはよくて、くいだおれはアカンいうんかいな。「セガのソニック」みたいな新参者や「早稲田大学の大隈重信」てな何の商売に使うかわからんものが認められて、なんで「くいだおれ太郎」は認められへんねん。そらね、関東のお人にはなじみがないかもしらんよ。そやけどやね、関西であの顔を見て「くいだおれ」という名前が思い浮かばへん者はモグリやと言われてもしかたがないくらい優れた商標ですよ。
 いずれは登録されるのだろうけれど、審査した人には関西の人間はいなかったに相違ない。関西人なら「くいだおれ太郎」を通して「大隈重信」は落とすだろうと思われる。
 しかし、早稲田大学は大隈重信の銅像を使って何か商売をしているのか? 不可解きわまりないとはこのことである。

 明日は所用で遅くなりますので、次回更新は水曜の深夜の予定です。

6月3日(水)

 駅前のカラオケボックスが閉店し、しばらくほったらかしになっていた。ガラス戸の向こう側は荒れ果て、缶ジュースがケースごと無造作に置かれているさまは見るからに無惨ではあった。
 ようやく改装工事がはじまり、新しいテナントが入った。近日開店ということで、店員やアルバイトの研修などをしている。カラオケボックスの後釜はトンカツ屋であった。店名は「とんかつ頑固」。関西の人ならおなじみの「がんこ寿司」の系列である。その証拠に「がんこ寿司」と同じく苦虫をかみつぶした社長の似顔が看板に掲げられている。いやあ、「がんこ」はトンカツのチェーンも展開しているんですね。多角経営というのか。食い物の店というこだわりはあるが、寿司とトンカツではえらい違いだ。
 この「とんかつ頑固」のショーウィンドウにでかでかと書かれている言葉が面白い。
「鹿児島がんこ豚」
 鹿児島産の豚なら、「薩摩黒豚」という銘柄があってスーパーでは他の豚肉より高くで売っているが、それとどう違うのだろう。ある種の差別化を図る意味でオリジナルの名前をつけたのだろうね。
 しかし、これを見た時、私は思わず頑固な豚が屠殺されまいと踏ん張っている姿を想像したぞ。えさを与えられても「カライモは口にあわん」とかいって食べなかったりするかもしれない。そんな豚はあまりうまそうじゃないぞ。
 「がんこチェーン」に難癖をつけるわけじゃないけれど、このネーミングはやめといたほうがいい。「薩摩黒豚」には他とは違うぞという格が感じられるが、「鹿児島がんこ豚」から受けるのは「これは薩摩黒豚とは違うということを主張しているぞ」といううそくさい感じだけだ。キッチュな薩摩黒豚というか。
 それにしても、オリジナル・ブランドを考えるのは難しいことだなあ。ひとつまちがうとこんな感じになってしまうのだから。
 待てよ、まさか「薩摩黒豚」は登録商標なんだろうか。そのために苦肉の作として「鹿児島がんこ豚」という名前をひねり出したのか?
 それはないと思うけれどなあ。

6月4日(木)

 駅前の「ロッテリア」の前を通るとテープで新製品の宣伝をしている。「ミラノ・チキンサンド」という商品である。この宣伝の呼びかけを聞いて、思わず笑っているカップルがいた。
「セニョール、セニョリータ!」
 まあ、ミラノであるからしてイタリア語で呼びかけたということなんだろう。くだんのカップルはなぜ笑ったのかしらないが、私はある古いギャグを思い出し、にやついてしまった。
 ケーシー高峰という芸人さんがいる。白衣を着てインチキ医学漫談をする芸人さんである。ケーシーというのは「ベン・ケーシー」という医師が主役のアメリカTVドラマからとったものだ。このケーシー高峰が20年以上前に流行らせたのが「セニョール、セニョリータ」という呼びかけなのである。なぜか医者のかっこうをして「セニョール」とやるのだが、その風体に似合わないキザ(という言葉はもう死語かな)な言い回しのミスマッチが受けたということでしょう。
 「ロッテリア」の宣伝を作った人は、ケーシー高峰のことを知ってて「セニョール、セニョリータ」とやったのかな。そんなことはないか。
 実は「ウルトラマンダイナ」というタイトルを初めて聞いた時もなんとなくにやついてしまったのだ。「主題歌はやっぱりディック・ミネかなあ」なんて。
 わからない人もいると思うので説明しておくと、「ダイナ」というのはもう先に亡くなった歌手のディック・ミネが戦前に大ヒットさせた歌なんですね。
「ダイナ、私の恋人」
 粋な歌で、私は大好き。喜劇王エノケンは替え歌でこうやった。
「旦那、愛してちょうダイナ」
 たぶん「ウルトラマンダイナ」のスタッフはディック・ミネの「ダイナ」なんか頭の隅にもなかっただろうなあ。
 人が思い付く言葉というもの、どこかで誰かが流行らせたりしているかもしれない。私もやはり言葉を使う仕事をしているわけだから、気をつけたいものであります。

 昨日の日記の「鹿児島がんこ豚」、「さつまがんことん」とルビがふってあった。なんかよけい変だ。

 森下一仁さんがホームページの日記で拙作「おおごえこぞう」に触れて下さっています。ありがたいことです。

6月5日(金)

 ヤングアダルト小説の挿絵というのは、ただ単に絵が挿入されている以上の効果をもたらす。キャラクターのイメージがその挿絵によって固定されるということもあるし、作家もそこで描かれたキャラクターをイメージしてシリーズの続編を書くことになるからだ。特にヤングアダルトはシリーズものが多い。第1巻とそれ以降のキャラクターに変化が出てきたら、それは挿絵の影響があると考えてもいいだろう。
 シリーズ途中でイラストレーターが交代すると、話の印象がずいぶんと変わってくる。冴木忍さんの「妖怪寺縁起」シリーズがそうで、富士見ファンタジア文庫のものは「女の子みたいな可愛い顔をした男」が角川文庫では「怪しい雰囲気のある美青年」に変わってしまった。
 野尻抱介さん「ロケットガール」「天使は結果オーライ」もそうだが、こちらは1冊目のキャラクターを参照しているのか大きな違和感はないけれど、画風がかなり違うので印象も変わってくる。
 なぜこんなことを書いているかというと、拙作「おおごえこぞう」が飯野和好さんの手によって存在感のあるものになったと感じているからだ。改定作業をしてる間にカットした書き込みが、一枚の絵の中でちゃんと描かれているのにはびっくりした。母性の象徴として出した「かよ」という少女がいるが、飯野さんはそのことを絵でしっかりと描き出している。
 そして、主人公の「おおごえこぞう」だ。私が想像した以上に野放図で、さみしがりやな「おおごえこぞう」を目の当たりにして、絵の持つ力のすごさを改めて実感した。もし、「おおごえこぞう」をシリーズ化したとしたら、私の頭の中には飯野さんの描いた「おおごえこぞう」以外の姿は思い浮かぶまい。
 絵本というのは文と絵とが対等の関係である。それだけに、画家の想像力を喚起するような文を書かなければ優れた作品は生まれないだろう。飯野和好さんという一流の画家に絵を書いてもらえるという幸運。おかげで私の生み出したキャラクターに命が吹き込まれたような気がする。
 もし、私の文が飯野さんの想像力を喚起したためにすばらしい絵が生み出されたのであれば、こんなに嬉しいことはない。これからもそのような喜びを味わいたいものである。

6月6日(土)

 公立学校は毎月第2・第4土曜日が休みなので、第1土曜である今日は出勤日。この隔週に休みというのは、けっこうしんどいものがある。体のリズムが調子悪くなるのだ。しかも、明日は日曜参観日。月曜日から数えて7日連続出勤。
 教師もしんどいが生徒もしんどい。
 修学旅行から帰ってきた翌週なので、週の前半は通常のリズムに戻すだけで疲れてしまった。その上に7日間出ずっぱりだ。
 こんなことをいうと休日出勤までして仕事をしているような民間企業の方からは「何を甘いことを言っている」と笑われるかもしれないが、ここに「S−Fマガジン」の原稿締切りが重なったりして、頭の切り替えとかけっこう大変なんですよ。
 昨日、なんとか書評を入稿。今日は仕事帰りに「日本芸能再発見の会」の例会へ。
 ここんとこ、ちょっと読書をさぼっている。今日はなんとか一冊読めた。リズムを早く取り戻して、読書ペースをあげなければ。

6月7日(日)

 カウント20000、ついに達成しました。ありがとうございます。わずか8ケ月足らずで到達したわけで、こんなに嬉しいことはありません。わけのわからんごった煮ページではありますが、これからも引き続きあれやこれやを書きつづってまいります。これからもよろしくお願いいたします。

 うちの最寄駅前の駐輪場に猫が住み着いている。
 最初にその猫を目撃したのは、自分の単車の隣にとめてある単車のシートにちょこんと座っている姿だった。茶色の体毛に縞の柄の入ったそいつは、道行くものを品定めしているかのようにジッと見つめている。
 何人かが通りすがりに猫の頭といわず背といわず撫でていく。いかにも気持ちがよさそうだ。私が買い物をすませて単車のところに戻ってくると、背中越しに子どもの声がした。
「お母さん、猫ちゃんもういないねえ」
 それから毎日、同じ駐輪場に猫は姿を見せるようになった。そして、なぜか必ず誰かがその猫を撫でにいくのである。自転車の下にもぐっているのをわざわざ手をのばして撫でる女性もいた。
 そのことを妻に話すと、妻はこう言った。
「猫の好きな人は、そうらしいね。どんなに離れていてもすぐに猫がいることを感じとって撫でにいくんやって」。
 そんなことを言っている妻は大の犬好きである。どんなに離れていてもすぐに犬がいることを感じとってとんでいく。まだ結婚前、デートをしていてこちらがゆっくりとムードを作ろうとしても、犬がそばを通りかかったらもうダメ。わーわーきゃーきゃーとうるさいこと。
 妻の話では、猫というのは不思議な動物らしい。こちらが可愛いと思って撫でにいくと、目をつむってされるがままにしている。ところが、撫でにいくふりをしてつまんだりつっついたりというようないたずらをしようとして近づくと、なぜか気づいて逃げてしまうのだそうだ。
 どうもそのへんが犬も猫も飼ったことがない私にはわからない。手乗り文鳥とかカナリヤなら子どもの頃家で飼っていたのだが。
 ともかく、駅前の猫はまるで何年もそこにいたように座っていて撫でてくれる人を無言で呼んでいるのである。

6月8日(月)

 野尻抱介さんのページの掲示板で野尻さんが「おおごえこぞう」の感想を書いて下さった。ありがたいことだ。そこで寺館伸二さんが「SF童話」があればいいのに、というようなことを書いてらっしゃる。
 「SF童話」といえば、福島正実さんの「おしいれタイムマシン」や筒井康隆さんの「四丁目が戦争です」(だったっけ)なんかがあったのを覚えている。筒井さんの童話は『筒井康隆全童話』という題で角川文庫に収められたこともあった。あと、横田順彌さんの『ポエムくんとミラクルタウン』シリーズも後半は童話として書かれたのではなかったっけ。
 実は、私もいずれは「SF童話」を書いてみたくて、アイデアを思いついたらメモしているのだ。「おひさま」には新作民話という路線で書いているので、他のところで、ということになるだろう。実際、話を進めている部分もあるのだが、それは実現が決まってからということで。
 ところで、子どもの頃の読書体験でSF童話がなかったかといえばそうでもない。
 学研の「◯◯年の学習」で毎年夏に「読み物特集号」が増刊として出ていた。ここで私は豊田有恒さんや光瀬龍さんのSF童話を読んだ記憶がある。たしか豊田さんのは、家に間違いでロボットが配達されてきて、留守番していた男の子が自分が言いつけられた用事を全部やらせるが、「部屋を片付けろ」と命令して部屋ごとその子も片付けられてしまう、というような話だった。翻訳もので「オバケのボロジャグチ」という話もあった。
 あの「読み物特集号」は毎年楽しみにしていたなあ。「学習」はいらんから「読み物特集号」だけほしいとわがままなことを言っていたっけ。付録がよかったので「◯◯年の科学」の方が好きだったのだ。で、「科学」だけ買ってもらい、配達してくれるおばさんに「読み物特集号」だけ注文してもらったのだった。
 あれに収められた童話などは他の短編集に入ったりしたのだろうか。散逸させるにはもったいない。学習研究社は架空戦記もいいけれど「読み物特集号」の復刻版を出してくれないものか。私は神田神保町に行かないので知らないが、古書店には出回っていないのかな。
 話がそれたが、「SF童話」は何年先になるかはわからないけれどちゃんと書きます。待っていて下さい。

 明日は所用で遅くなります。次回更新は10日の深夜の予定です。

6月10日(水)

 昨日買った「週刊プレイボーイ」の6/23号に集英社文庫の広告が載っていて、草薙渉さんの「第8の予言」というミステリを紹介しているのだが、そこで草薙さんのホームページがあることを紹介している。
 こんな具合だ。
「草薙渉氏は、会社員でありながら作家でもあるという2つの顔を持つ男。さらに名前ばかりのホームページが多いなかで『文芸下見所(パドック)』というしっかりと中身のあるホームページを主催するデジタルな作家でもある」(原文ママ)。
 この調子でいくとだな、私だって負けてないぞ。
「喜多哲士は、学校教師でありながら書評家でもあり、また童話作家まで手を広げ、という3つの顔を持つ男。さらに名前ばかりのホームページが多いなかで『喜多哲士のぼやいたるねん』というたいした中身はないがとりあえず毎日更新しているホームページを主宰し、デジタルに見えながら頭のなかはアナログな作家である」。
 まあ、私についてはともかく、作家が二足のわらじをはいていてなおかつホームページも作っているのは草薙氏に限ったことではあるまいに。また、作家のホームページというとたいていは専業兼業に関わらず工夫した面白い、つまりしっかりと中身のあるものだからそれほどすごいことではないと思うのだがなあ。例えば柴田よしきさんの場合、妻であり母親であり作家であり、かつホームページも中身があるぞ。お楽しみプレゼントもあるぞ。
 ホームページを作っている兼業作家というのは今どきセールスポイントになるのだろうか。出版業界全体がふるわず専業作家というのではなかなか食べていけないご時世だから、何足もわらじをはきながらひいひい言っている私なんかは、かえってその方がすごいと思うのだけどなあ。


ご感想、ご意見はこちらまで。どうぞよろしく。
過去の日記へ。

ホームページに戻る