今日も蒸し暑い。夏だなあ。
街を歩いていると、ゲームソフトの店に面白い貼紙を見つけた。手書きの求人ポスターである。条件がついている。
「ゲーム好きでない人。営業をやる気のある人、募集」
ゲームが好きでないのに、ゲームソフトの店が勤まるのだろうかという気もしないではないのだが、店主がこんなことを書いたのも何となく想像できる。
たぶん、マニアとかいわゆる「おたく」とか呼ばれている人を雇って失敗したのだろう。確かに、マニアを雇うと商品知識はあるから役にたちそうだが、営業能力があるとは限らない。かんたんな事務能力すらない者も中にはいるかもしれない。仕事そっちのけでゲームばかりやっているような手合いを雇ったとしたら、「もうゲームが好きだというような奴はいらん!」となってもおかしくはない。
教師にもいますよ。TVドラマの教師になったようなつもりで自分の言葉に酔うような人が。学年主任の先生が扱いかねていたなあ。
仕事というのは、好きなだけじゃなくて自分のすべきことを客観的に見ることができなくては勤まらないものだと思うが、マニアックな人というのは往々にして近視眼的になりやすいから雇い主としてはそこいらを見きわめなければならないのだろう。
しかしねえ、だからといってゲームが好きでない人にゲームソフトの店の仕事をさせても苦痛でしかないようにも思うのだ。
昔の人はうまいことをいったものだ。
「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」。
ことわざを地でいくようなポスターでありました。
書評の関係でひさしぶりに翻訳SFを読む。
いかに普段読みやすい本ばかり読んでいるかということに気づかされた。
改行と台詞が多いのがヤングアダルトの特徴だ。特に会話はテンポがよくないといけない。アニメの台本に近いものを感じる作品もある。地の文は情景描写が主である。
それに対し、翻訳SFというのはまるで改行してはいかんという決まりでもあるのかというほど文字がつまっている。むろん台詞は原文に出てくる調子で訳していかなければならないだろうから、会話の書き方も英文特有の表記にならったものになる。つまりこんなぐあいに。
「なるほど」と、マイクは言った。「それはきみのいうとおりだな」。
「そうだとも」とジョンが答える。「解ってくれたかね」。
この、台詞の間に地の文がはさまる表記というのが、慣れるまでは読みづらいのである。
英文なんかだとわりとこういう書き方をすることが多いのだろう。私は英文で本を読むことがないのでよく解らないが、翻訳文にこういう書き方がよく見られるので、たぶんそうなんだと思う。
完訳ともなると文章の構成など訳者の都合で変えることは難しいのだろうから何だけど、ヤングアダルト文体に慣れてしまった頭にはこんなことだけでけっこうこたえてしまったのであります。すぐに頭を切り替えられないほど染み付いてしまっているのだね。
カウンターが25000をヒットしました。それだけの人たちに読んでいただいているのだなと思うと、身も引き締まる思い。今後もよろしくご愛読をお願いいたします。
ところで、あちこちのホームページを見せてもらっていて、変わったサイトを発見した。仲間を作って、ホームページのカウンターの数が1000とか2000とか仲間にちょうどにあたるようにする集団のサイトである。確かにカウンターの数が増えるのを見るのは楽しみだし、切りのいいところにヒットすると気持ちいいけれども、ちょうどにあたるまで何度も再読み込みするというのは、どうなのかなあ(再読み込みの回数は制限しているのだけれど)。
インターネットというのは世界中の人たちに自分のいいたいことなどを発信したり、またそれに対する意見をもらったりする双方向性のあるメディアである。だから、私は不特定多数の人たちが読んでいるのだと思ってこれを書いている。カウンターを設置したのも、どれだけの人たちがアクセスしてくれているかということを知る目安と考えている。だから、カウンターのヒット数を増やすことはむろん目的ではない。増えてくれたら嬉しいが、反面それだけの読者を意識せざるを得ず緊張もする。
でも、そうではない人たちもいるのだということを知った。なんだか、クラシックの演奏会で曲が終わった時に「ブラボー!」と叫ぶことを楽しみにしている「ブラボー屋」と呼ばれる人たちみたいであるなあ。
しかしまあ、いろいろな楽しみ方があるわけで、人の趣味をとやかく言えるほど私も偉いわけじゃない。いろんな人たちがいるんだなあ、と思うばかりだ。
明日は所用で遅くなります。次回更新は8月5日の深夜の予定です。
昨日は所用で京都に。途中で京都駅八条口にある「アバンティ京都」の書店に寄る。
ここはいわば本の百貨店みたいなところで、よそで探してもない本はここにいけばよほどの稀少本でない限り見つかる。ならば最初からここで探せばいいようなものだが京都駅というのは私の行動半径から少々ずれているのでわざわざ寄らなければならないのだよ。
しかしなんですね、ヤングアダルト小説のシリーズものって、既刊本はなかなか見つからないものですね。どこにいってもそろっているのは同じシリーズばっかりだ。ちょっと遅れて読みはじめようとしたら探すのに手間取る。さすがに「アバンティ」にはありましたが。
で、八条口(駅の南側)から地下を通って烏丸口(駅の北側)にあるバス停へ移動。地下道から階段を昇るわけだが、そこにはホームレスのおっちゃんたちが座って新聞を読んだりしている。空気の流れる道になっているので涼しいのだろう。ちょっと視線をずらすと、若い女性も同じように座ってフリーの情報紙なんか読んでる。不思議な光景だ。踊り場をまわるとやはり若い女性がやはり階段に座ってこちらは旅行のパンフを読んでいる。
この階段はなんなんだよ。
工事のためのフェンスに隠れて死角になってて陽もあたらないし人ごみの中のベンチよりは気楽なんだろうが。そういえば、私以外には通る人もいなかったようだ。あまり人通りはない「穴場」なんだろう。
してみると、彼女たちは常連さんなのかもしれない。ホームレスのおっちゃんと若い女性たちの垣根も低くなってきているのだろうか。
今度行く時はペットボトルかなんか持ってそこに座り、本でも読んでみようか。喫茶店よりも快適かもしれない。縄張りを荒らすとかいって嫌がられるかもしれないな。
都会の死角にはいろいろなスペースがあるものなんだなあ。
小中高の教師の半数はパソコン操作「ダメ」
こんな見出しの記事が8月6日付「日刊スポーツ」に掲載されていた。おそらく共同通信の配信記事であろう。16行ほどのベタ記事で、詳しいことはわからないのだが、文部省の調査で公立校の教師のうちパソコンを操作できるのが49%、コンピュータを使って授業ができるのが22%であるという結果が出て、情報教育を推進していく体制整備の遅れを現しているという。
いったいどういう調査をしたのかしらないが(少なくとも私の勤務する養護学校では実施されていない)、こんないいかげんな数字で結論を出すというのはいかがなものかと思う。だいたいどのような基準で「パソコンを操作できる」と判断しているのかがわからない。パソコンを立ち上げて特定のソフトを操作できる程度のものも含めているのか、OSの仕組みをだいたい理解していて自分用にカスタマイズできるという程度のものをさすのか、プログラミングなども全てできるというところのものをさすのか。その定義で変わってくるだろう。
「コンピュータを使って」と一口でいうが、そのOSはWindowsなのかMacOSなのかunixなのか。学校教育ではどのOSを使うのかがはっきりしてなければ、Macintoshしか使ったことのない教師がいきなりWindowsのパソコンで授業をしろといわれても、結局はきちんとした研修が必要になってくるだろう。
学校に配備されているコンピュータの数も教師や生徒の人数に見合っただけのものがあるのかどうか。私の知っている高校ではかなり前にDOS-Vマシンを配備したきり予算の関係でWindowsに対応できるマシンは新たに入れてもらえていない。そんな現状で「情報教育」も何もあったものではなかろう。正直いって新機種や新OSがどんどん発売されていくのに文部省や教育委員会がどれだけ対応できているのか。ちゃんと予算はつくのか。
このような見出しでは一方的に教師が不勉強であるかのような印象しか与えない。どのような情報教育をしていくのか、その方針を出してそれにそったパソコン知識を持っているのかという調査をしたのだろうか。
こんなベタ記事からは結論はだせないことなのだが、この調査にどれだけの意味があるのか、疑問を感じたのであった。
4月18日の日記に書いた鴨川にかけるフランスの橋についての続報が新聞紙上をにぎわしている。
とうとう計画は白紙に戻し、橋はかけるがデザインは再考するというのだ。当たり前であるといってしまえばそれまでだが、市長の勝手な思いつきが多くの人たちの反対でくつがえったのだ。まずは喜ばしい。
しかしなんだね、桝本京都市長も粘ったね。私が日記に書いた時点ではすでに反対運動もおおいに盛り上がり、各種メディアでとりあげられていたのである。この間、「シラク大統領と約束したから」とか「地元住民の要望があった」などと言い訳をくり返してきたのだ。
しかし、頼みのシラク大統領はわしゃしらんと逃げ、地元住民は反対の署名を集め、マスメディアも反対運動を後押しした。「シラク大統領が死ねと言うたら、あんたは死ぬんか?」などと子どものケンカみたいな感想を持ったものだが。
しかし、今回の騒動で感じたのは、市長が思いつきのように言ったことが地方自治体では実現の方向で動いてしまうということの恐さである。地方自治体の首長というのは、それだけの権限を持っているということなのだ。これは法律上の権限というよりも、その首長を支持する議会与党や地方自治体の職員たちが、首長の発言に逆らいにくいということなのである。
例は違うが、東大阪市の前市長が地位を利用して市の予算を自分や家族のために使っていたことなど、市の職員や市議会議員たちが知らなかったわけはないのに、警察が動くまではそれをやめさせることができなかったということもある。
上意下達というか、役所の体質にはそういうものがあるように感じる。教育現場でもそういう状況はあるのだ。
そういう意味で今回の市長案断念のニュースは大きな意味を持っていると感じた次第である。
書店でコミックスの新刊を買う。少年サンデーコミックスの『風の伝承者』(原作・若桑一人/作画・山本智)の第1巻である。3月5日の日記で書いた、高校時代の後輩である漫画家の山本くんの連載がとうとう単行本になったのだ。
嬉しいだろうなあ、と思う。
漫画家と名乗った時に、「どんなマンガを書いてらっしゃるんですか」なんてきかれた時、単行本を見せることができるのとそうでないのとでは大違いだろう。他の出版社に仕事をもらいに行く時だって、著書があるのとないのとでは相手の心象はかなり違ってくると思うのだ。
よかったなあ、と思う。
私はずうずうしく童話作家だの書評家だのと名乗っているが、自分の著書というのは1冊もない。ろくだま仕事もせずに何をいうかといわれそうだが、ものかきをやっていて、自分の著書というものはやはり1冊でいいからほしいものだ。
だから、今日、書店で『風の伝承者』を手にした時は、少し羨ましくもあった。
そんなことをいっていないで、新作を書けばいいのだけどね。やはり次の目標は自分の名前がクレジットされた絵本でありますね。
いつの日になることやら。
それはともかく、『風の伝承者』はなかなか面白い。嘘は言わない。ご一読をお薦めいたします。
今日読んでいた小説のプロローグ、私はいきなりカウンターパンチを食らってしまった。
シベリアのツングースに隕石らしきものが落下して爆発が起こるのだが、なんとそれは数メガトンの核爆発に相当する爆発なのであるが、落下したはずのところに落下物が残っていなかったので、「これはブラックホールではないか」と考えられた……。
この「ブラックホール」なるものは「重力源としての質量はあるのに、大きさが無限小の星の死骸であるから」「地面に落下してもスルスルと地球を貫通して」、地球の反対側の洋上から突き抜けてふたたび宇宙に飛んでいった……。
やられたねー。これはすごい。妻に見せたら大笑い。こんな凄いギャグを書く作家は見たことない。いや、まいりました、降参です。
しかも、この場面、物語の発端となる事件であるにも関わらず、その後の展開で一言も触れられていないという、単発のギャグなのだ。もったいないねー、これだけで1冊費やせるような場面をおしげもなく投入しておいて、もう使わないとは。
からかうような書き方をしてしまったけれど、私が思うに、編集者は何を考えてこんなみょうちくりんな記述をそのまま本にしてしまったのだろうか。いや、私のブラックホールに関する理解が誤っているのだろうか。そんなことはないよね。
知らないのならちゃんと調べなさい。子ども向きの天体の本にだってブラックホールについてはちゃんと書いてあるはずではないか。作家が無知でも編集者がしっかりしていたらこんな凄い記述を活字にしてしまうことはなかっただろうに。いくらオカルト的な要素の強い話でも、科学的なことを書く時にいいかげんであってはならないと思うのだが。
この場面は、田辺梨紗「一秒の恋人」(講談社X文庫ティーンズハート)の序章にある。6月発売の本だが、まだ書店にはあると思う。作品全体の感想はいずれ「読書感想文」のページに書くつもり。
ヤングアダルトも手当りしだいに読んでいるとこういうものにもあたるということ。いやいや、冒頭でノックアウトされて、しばらく続きを読むことができなかったよ。
夏休みにはいって、昼に買い物に行くことが多くなった。
大型スーパーに行くとお年寄りの姿を目にすることが多い。家にいてもTVを見るぐらいしかないから、スーパーなどというところはかっこうの暇つぶしの場所なんだろう。
ジュースのコーナーの座席にぽつねんと座って涼をとっているお婆ちゃんがいるかと思えば、サービスカウンターの店員さんと親し気に話をしているお爺ちゃんもいる。
常連さんなのか、それとも店員さんの知り合いなのか。えらく話が弾んでいる様子だ。
そらそうやね、クーラーはきいてるし、食いもんはあるし、座るところはあるし、若者が楽し気にしているのや子どもが元気にしているのを見れば自分も楽しい気持ちになるかもしないし、その上話し相手になってくれる人もいればいうことなしだ。
人というものは時代についていけないでしんどい思いをすることもある一方で、こうやって昔にはなかった場所での楽しみ方を見つけることもできる柔軟性も持っている。
むろん、お年寄りがそれを心から楽しんでいるかどうかは、私などにはわからない。だが、自分なりに居場所を作っているように見える。
私が年老いた時に、そうやって作る居場所はいったいどういうところなのだろうかと、ふと思った。