台風が時間差攻撃をかけてきた。
小型で足の早い台風8号はさっさと近畿地方を縦断して日本海側に抜け、中形でゆっくりめの台風7号は22日の午後には近畿地方を暴風圏にいれるとか、TVで報道してます。
この時間差攻撃がややこしい。なにがややこしいかというと、私の勤務している学校の臨時休校の規定の隙をついてくるような攻撃なんですわ。
「午前7時の段階で大阪府に暴風警報が発令されている場合、臨時休校とする」というのが勤務校の規定。これでいくと、台風8号は夜中のうちに通り過ぎるやろうからこの台風だけやったら臨時休校はあり得へん。台風7号は午前7時にはまだ大阪を暴風圏におさめてないやろうから、警報がでてるかどうか疑わしい。生徒が登校してから警報が出たら、生徒を家に帰さんといかんのやけど、台風がやってきて警報が出ている中を全員帰らせるというのは、はっきり言ってムチャだ。スクールバスで通ってる生徒は、自宅に連絡して迎えにきてもらうこともできるんやけど、家が留守の場合もある。電車で通ってる生徒となると、これはよけいに難しい。
自宅待機させて様子を見るという手もあるけど、警報が出なかった場合は管理職の判断ミスとされてしまう。校長や教頭というのはしんどい仕事ですな。教育改革法案では文部省やとか教育委員会の指導よりも校長の判断を強めるというような内容になるようやけど、残念でした、この法案は次の国会に提出されるから22日の朝はまだ教育委員会の指導に従わなならんのです。
で、管理職のみなさん、今晩は泊まり込み。大変ですなあ。
もし、臨時休校や生徒の自宅待機になったとしても、教師はちゃんと出勤せんといかんのだから、休校じゃ休校じゃと喜んでばかりはいられへんのですけどね。当たり前の話やけど。
しかし、授業があるとないとでは大違いなわけで、そこらへん、この時間差攻撃はやっぱり難儀やねえ。どっちかはっきりしたれや、と自然現象に抗議を申し込むわけにはいかんしね。
台風がくるといえば、夜と相場が決まっていたような気がするけど、今回の台風7号は真っ昼間に近畿地方を突っ切っていった。家にいて台風が通過するのをじっくり見たのはこれが初めてと違うやろか。
子どもの時分は夕方から窓ががたがたいいはじめて、それから雨戸を閉めてテレビを見てたら停電になって、父がヒューズを探しにいってつながるまでロウソクをつけて、雨戸もがたがたいいはじめるころに布団にもぐりこんで、起きたら雨戸のすきまから太陽の光がもれていて、というような記憶しかないもんね、台風には。
朝の6時半にはまだ注意報やったけど、ぎりぎり7時に暴風波浪警報にかわった。これで臨時休校が決定。それでも原チャリに乗って勤務校へ。午前中は仕事をしたけど昼までにはやはり原チャリで帰宅。雨の中を走るのはね、けっこう気力体力を消耗するよ。帰ったらくたくたになってたからね(それでも途中で本屋に寄って本を買うてるンやね、私は。なんちゅう奴やと、自分でも感心するわい)。
帰ったとたんに雨と風がきつくなってきた。
うちは北と南にそれぞれベランダがあるのだけれど、最初は北側のベランダに横殴りに雨が降りこんできた。洗濯機のカバーが飛ばないようにペットボトルに水を詰めておさえたら妻にほめられた。しばらくすると、あら不思議。雨も風もおさまったよ。なんか静かになったなあと思ったのもほんのつかの間。今度は南のベランダがびしょびしょ。物干竿なんかはみんな妻が下しといてくれたんでものが飛んでいくというようなことはほとんどなくてすんだけどね。洗濯鋏をぶら下げていた針金のハンガー(クリーニング屋がくれるあれです)がどっかいっただけですんでよかったよ、ホンマに。
台風というのは、円形なんやなあと実感したわけです。通り過ぎる前と後では風向きが正反対に変わったもんね。台風の目からははずれてたと思うんやけど、目のあたりとおぼしきところが通過する時は風が凪いだしね。
しかし、大阪にこの規模の台風がきたのは久しぶりやないかな。去年は7月にたてつづけに台風がきてたけど、雨風はここまで強くなかったし。TVの映像で見たけど、神戸市内には川の水があふれてえらいことになったところもあるんやね。台風はまだ北陸から東北へと移動している。はやいとこ日本海に出てほしいよ。
こら台風、その方がスッキリするとは思わんか。
思わんわな。
阿部定がちょんぎった愛人のイチモツが警察庁の資料庫に残っていたそうな。ホルマリン漬で保存してあったんやて。ただし瓶には誰のイチモツであったかは書かれてないから、特定はでけんそうだ。とはいえ、他にそういう事件はないので本物の可能性はかなり高そうだ。
いやあ、置いてあるもんなんやねえ。
今の法律やと証拠物件は裁判のあと検察が処分するから警察には戻ってこないそうです。だから、戦後の大きな事件の物証なんかは我々お目にかかることはない。お目にかかるどころか、公開なんかしたら人権侵害になってしまうやろうね。
60年間も資料庫の中にほりこんだままやったわけですな。その間虫干しもせんかったのか。あんまり入りたくないなあ、その部屋には。
これは9月23日付の「日刊スポーツ」で私は読んだんやけど、そこには当時の「東京朝日新聞」の紙面も掲載されてあった。当然阿部定の写真もあって「定婦妖たれは捕」、違う違う右から読まなあかん、「捕はれた妖婦定」とキャプションがついている。「妖婦」ですよ、「妖婦」。すごい呼び方やなあ。大見出しも恐ろしげやね。「妖婦お定遂に就縛」ですからね。
ところが、この写真を見て妻が指摘した。
「えらい和やかな雰囲気やねえ」
確かに、定の笑顔はなんだか晴々としているし、刑事とおぼしき後方の男性も白い歯を見せている。見出しがなければこれから行楽にでも行きそうな感じだ。とても猟奇事件の犯人を「就縛」しているようには見えません。
ほんまにね、定はめちゃめちゃ嬉しそうやねん。逃げるのに疲れてほっとした、とかいう笑顔やないねん。「阿部定事件」のイメージというと「不倫」「愛欲」「猟奇」というところになるんやろうけど、この写真から伝わってくるのはそんなどろどろしたものではないんだ。全然「妖婦」という感じではない。
時代、と一言ですませたらあかんのやろうとは思うけど。でも、時代の空気というものと違うかなあ。なんだかおおらか。今と比べてよかったのか悪かったのかは一概にどちらとは言い切れないとは思うけど。なんだか不思議な時代やったというような空気が、この「阿部定」の写真からただよってくるんだ。
ところで、問題のイチモツは来春に予定している資料展示に公開するかどうかは未定やそうです。話の種に見てみたい気もするけど、イチモツのホルマリン漬というのは、ねえ。
妻が駅前でボールペンをもらってきた。フィトネスクラブの販促グッズで、私は夏に同じフィトネスクラブのうちわをもろた。えらい販促グッズに力をいれてるところですな。冬はカイロでも配るのかな。
ボールペンは切れてくるかなと思うともらえるようになってるね。今うちで使うてるのは職場で生命保険のおばちゃんが配ってくれた名刺代わりのもの。その前に使うてたのは書店くじで末等でもらったもの。
書店くじのボールペンは四角くて持ちにくかったけど、3〜4本くらいもらったのでなかなか使い切らんかった。書きやすいのは生保のボールペンやね。長さ、重さとも過不足ない。実用を極めた結果の普遍性とでもいうのか、ありきたりの形やけど一番使いやすい。生保の会社が違っても、同じ形のボールペンを配っている。もっとも喜ばれるサービスとは何かということが長年積み重ねたノウハウから導きだされた、ということなのかな。
別に「この前のボールペンはどうでした?」てなことを生保のおばちゃんからきかれたことはないんやけどなあ。あっ、そうか。自分たちで使ってて一番使いやすくて値段の安いのを選んでるのかもしれんね。
しかし、こうなるとボールペンをいちいち買うのがもったいないという気になるね。いつやったか、妻が免許更新の時にたまたまボールペンを持ち合わせてなくて、免許試験場にはなんでかしらん備え付けのボールペンがなかったという。時間がなかったこともあるけど、売店で買うようにいわれて生保のおばちゃんからもらうのと同じ形のものを買わされたそうな。警察はせこい! いまだに妻はその時の代金50円をもったいながっているぞ。
私がふだん持ち歩いているのは「六甲颪ボールペン」。これは大阪の早朝ラジオ番組「おはようパーソナリティ道上洋三です」にお便りしたら番組内で紹介された上に記念品としてもらったもの。ノックするたびにタイガース球団歌「六甲颪」の歌詞がボディの横から見えるという楽しいボールペンだ。2年ほど前にもらったのに、まだもっている。ほんま、自分で買うのはアホくさい。
今日妻がもらったボールペンが切れるのはいつのことやろねえ。
9月18の日記以来、「ロバパン」情報をいくつかいただきました。田中啓文さんによると「探偵ナイトスクープ」ではもう依頼済みやそうです。そうやろねえ。中笈木六さんの記憶では(たぶん)「目撃!ドキュン」というTV番組も追跡してたそうです。
だいたいのことはここを見ると「ロバのパン」についてわかります。現状まではおさえてないようですが。
一応追跡はこれで終了にします。私としては「ロバパン」がまだ四国で現役で活躍しているということがわかっただけで満足してます。
情報を下さったみなさん、ありがとうございました。
中笈さんからは「アイスクリン」の話もいただいているのですが、それはまた日を改めて。
今日は「S−Fマガジン」発売日。幸い隔月とはいえ連載を書評でもっている私は、自分の載っていない号も送ってもらってる。今月の「ヤングアダルト・書評」は三村美衣さん。「彗星狩り」「ベクフットの虜」「セレーネ・セイレーン」の3作品を取り上げている。
こういう月の書評家というのは、しあわせやろなあ。なんぼでも原稿がかけるというような感じと違うやろか。そうそう、そろそろ私も締め切りが近づいてきた。運動会を明後日に控えて毎日ヘトヘト。帰ってきても本を開くのかおっくうになる。なんか久しぶりにボロカス書評を書いてしまいそうな精神状態やで。あかんがな。京都SFフェスティバル直前にそんなことをしたらまた吊るし上げではなく夜を徹して若者たちと話をせんならんようになるやないですか。体力が落ちている当今、それだけは避けたい。
「読書感想文」のコンテンツを見直すと、あれあれこの2ヶ月はあまりヤングアダルト小説を読んどらんで。よう言わんわ。こらいかん。ちょっと馬力かけなならん。といいつつ、明日は休日出勤やったりする。馬力も車力もありません。
「手塚治虫キャラクター図鑑」(朝日新聞社)の3巻と4巻を買う。4巻の表紙は「リボンの騎士」のサファイア。妻は「リボンの騎士」の大ファンやから、表紙を見ただけで大喜び。最近広告などで手塚プロの作画したサファイアをよく見かけるけど、描線が違うね。生きた線というのか。広告などで見るサファイアはキャラクターとして図案化されたものという気がするね。
ところで、「リボンの騎士」について、妻がこんな思い出を話してくれた。
中学の時にあるお友だちが「リボンの騎士」の主題歌は「ぼくの見る夢は秘密だよ」という歌詞やという。妻の記憶では「あたしの見る夢秘密なの」やったので、そこでちょっとした言い合いになったらしい。
私の記憶では歌詞はなくてインストゥルメンタルだけやったんやけど、それは再放送での記憶やから、本放送ではどうやったか、わからない。
コロムビアレコードから発売されていたLPなんかはみんな「ぼく」ヴァージョンになっている。当時のラジオ番組に「はーい浜村淳ですABC」というのがあって、その中にアニメソングのコーナーがあった。ここでは当然レコードをかけるわけやから、「ぼく」ヴァージョン。
「あたし」を主張する妻にそのお友だちはレコードを持ってきて「ぼく」ヴァージョンの歌を聞かせたそうな。記憶と現物が戦ったら、記憶は弱い。妻は無念に思いながら黙らざるを得なかったということやそうです。
さて、ほんまはどちらが正しいのでしょうか。
妻が正しいのです。ついでにいうと、私も間違ってない。
最近東芝から発売された「懐かしのミュージッククリップ・リボンの騎士」はTVサイズの主題歌とレコードサイズの主題歌を収録しているんやけど、ブックレットの解説によるとTVでは主に「あたし」ヴァージョンが使われ、インストゥルメンタル・ヴァージョンも残されているということ。当時でた朝日ソノラマのソノシートは別に録音したもので、それは「ぼく」ヴァージョンなんですな。「ぼく」ヴァージョンはレコード用に作られた歌詞で、「あたし」ヴァージョンはレコードにはなっていなかったということなんやね。
さて、では妻のお友だちはなんでこんな間違いをしたのか。
これは私の推測なんやけど、お友だちはリアルタイムでは「リボンの騎士」を見てなかったんと違うかな。再放送では、私の記憶のように歌詞の入ってないのを使っていたし。となると、情報源はレコードしかないのです。だから、「ぼく」ヴァージョンしか聞いたことがない。ということではないでしょうか。
あとから得た情報というのは、やっぱり一次情報を正確に伝えてないことがあるからね。アニメソングのCDなんか、版権の関係で各レコード会社が独自に録音したものを収録している場合が多いし。古いアニメなんかの場合、それは顕著やね。オリジナルでないものをオリジナルと思い込んでしまうケースというのが出てくるわけだ。
今度カラオケで「リボンの騎士」を歌おうという人は、字幕を無視して「あたし」ヴァージョンで歌いましょう。それが正しいアニソンおたくというものやないでしょうか。
え? もうとっくにそうしてる?
失礼しました。
あしたはいよいよ運動会本番。その夜は打ち上げでのみに行きます。そんなわけで次回更新は月曜日の深夜の予定です。
天候不順とグラウンド状態の悪さで、運動会は水曜日に延期。打ち上げも中止。帰宅してからは漫才のCDを聞いたりして過ごしました。
なにを聞いていたかというと、「かしまし娘」や「宮川左近ショウ」なんかです。いわゆる「音楽ショウ」といわれてる漫才ですわ。東京やと「ボーイズ」という言い方をするのかな。コミックバンドとはちょっと違う。三味線やギターやアコーディオンを持って舞台に出て歌とおしゃべりで笑わせるというもの。
で、昔の「音楽ショウ」の漫才を聞いていて、ふとSFについて考えてしまう。なんでやねん。
漫才というと、「しゃべくり漫才」が現在では当たり前やね。でも、エンタツ・アチャコの出現までは「万歳」といって三味線や鼓を持って替え歌や地口などで笑わせるというのが当たり前やったわけだ。「音楽ショウ」というのは「万歳」と「しゃべくり漫才」の両方の特質を備えていると考えてもよろしい。
かしまし娘も宮川左近ショウもフラワーショウも音楽の部分がしっかりしていて漫才の部分も笑える。ただし、宮川左近ショウは浪曲の部分が多く、笑いは少ない。でも、さすがに浪花節や三味線は聞き惚れるほどの名人だ。
これをSFに例えると……ふと思ったことなんであまり厳密やないんです。だいたい漫才をSFに例えるというのが無茶で、そこは堪忍して下さいね。
で、SFに例えるとやね、SFのサイエンスな部分が音楽ショウ漫才の音楽の部分、しゃべくりが小説の部分、登場人物のキャラクターは漫才師の個性、とこう読み替える。SF独特の発想の面白さとかは漫才でいえばお客を笑わせる部分でしょう。
ハードSFは、音楽部分がしっかりしていないと芸を楽しめへん音楽ショウみたいなもんやないやろか。逆に、サイエンス部分は厳密な意味で正確やないけどSFとしかいいようのないものはしゃべくり漫才やないかと。
もちろん、どちらも漫才だ。漫才師のかけあいなどでお客を笑わせてくれたらそれでええわけです。そこに浪曲やら民謡やら芝居やらを全面に押し出すか味つけ程度ですますかは演者の個性の違いやから、どっちがええか悪いか比べることはでけへん。どっちも漫才やから、おもろいかおもろないか、芸があるかないか、それでしか比べられんと、こう思うわけやね。
SFはSFで、発想の面白さとかいかにそれらしく書かれてるかとか、そういうところを楽しみたいというのが私の思いやね。サイエンス部分の辻褄が合わんかっても読んでいる間はそこにひっかからんほどうまく読者をだまして楽しませてくれたらええんと違うかな、と思うんだ。もちろん、どちらもSFだ。あとは小説がうまいかへたかとか、そういうところでの比較になるよね。
漫才を聞きながらこんなことを考えるかね、普通。
ともかく、理屈抜きで面白いというのはどういうことかということを考えたらどんなジャンルでも言えることは同じと違うかと、そういうことを考えたわけです。
一昨日の日記で書いた「リボンの騎士」の歌について、岡田英之さんから「てなもんや掲示板」の方でご教示をいただきました。ありがとうございます。
運転免許の更新のための講習を受けに行く。
わざわざ時間休をとって行っておるのやから何か有益な話でも聞かせてくれんと勘定が合わんぞと思っていたら、なかなか面白い話やったんで、許したることにしよう。
私が受けたのは優良者講習。要は違反や事故による累積点が0点なんです。そやから時間も短く30分。一般講習になると90分やからその差は大きいね。
10月からは大阪も他府県なみに120分にのばすらしい。違反はしても検挙されんように気をつけななりませんな。
10月から大きく変わるのは、免許停止期間を短縮してもらうための講習やそうです。まず、受講料が倍になる。なんでや知りません。それから、これまで6時間やった講習に加えて、3時間の実技講習が加わる。ただしこれは点数が一気に免停の基準に達した者が対象となるとか。なんでも、いうてもわからんもんには最初からやり直してもらわないかん、というような意図があるんやて。
ひどいなあと思うたんが、点数がちょびちょびたまっていって免停になった人。これは実技講習やなしに「ボランティア」で交通安全に役立つことをしなければならんそうだ。実例としてあげられたのが次の3つ。
◎事故の多い交差点で「事故に注意」などと書かれたプラカードを持ってかどに立つ。
◎小学生の下校時間帯に子どもたちの横断する交差点で旗を持って誘導する。
◎路上駐車が並んでいる道に行き、自動車のワイパーに「駐車違反」と書かれたビラをはさんでまわる。
やめてくれや。プラカードなんか持って立つなんて、さらしもんやないか。そんな危ない交差点で車に轢かれたらどないすんねんな。ビラをはさむのも3時間もそんなことをやらされたくないよ。大阪は路上駐車が多いから仕事がなくなることはないかもしれんけど。でも、これって人件費をうかすためにやらせるみたいやんか。
免停には絶対になりたくないね。なっても素直に30日間免許を警察に預けておいたほうがましやね。
というわけで、面白いネタを仕入れたわいと思うたら、今日買うてきた「週刊プレイボーイ41号」に『免停講習費いきなり2倍!に値上げってホントか!?』という記事が載っておりました。なんでこんなことになったのかということがくわしく書いてあるので、興味のある方はそちらをお読み下さい。この号には「ウルトラマンティガ」のレナ隊員役の吉本多香美のセクシーショットも載っているぞ。いや、それは免停とは関係ないですが。
延期になっていた運動会は無事行われまして、やれやれでございます。
一応赤白で得点を競って勝ち負けを作ったりなんかしてるんやけど、私の担任しているクラスは白組で、白組が勝って生徒たちは喜んでいる。中には感激して泣く生徒もいたりする。なにもそこまでとは思うんやけど、そういった素直さも彼らの美点であるわけだから、突き放すわけにはいかんわな。
私は昔から体育が苦手な子やったから、競走では必ず「どべ」。「どべ」ではわかりませんか。「べべた」。よけいわかりませんか。「びりっけつ」というのかな。早い話が6人で走ったらいつも6等、5人で走ったらいつも5等、4人で走ったら……しつこい。
だから赤が勝とうが白が勝とうがどっちゃでもよかった。だいたいやね、自分は毎年クラスが変わってその年によって赤になったり白になったりするんやから、「赤組」とか「白組」とかいう集団に対する帰属感というものを持てなかった。
運動会当日、前で先生が「去年は赤が勝ちました。今年は白もがんばりましょう」なんてことを言うとやね、「ぼくは去年は赤やった。今年は白や。去年負けたチームとは関係ない」てなことを考えたりしてたわけです。嫌なガキやね。また自分の後ろにいる奴が先生の言葉に応えて「おーっ」とか気合をいれてる。「お前、去年もぼくと同じクラスやったやないか。何考えてンねん」と、口に出して言うとケンカになるから言わないけどアホらしくなったもんです。
運動会というようなものは、団体競技もあるけど競走が中心やね。それも全部点数に組み入れてあたかも団体競技であるかのように見せかけたり、人を勝手に赤白に割り振っておいて強制的に自分のいる集団を応援させたり、理不尽なものやね。
ああそうか。オリンピックで射撃も水泳もバレーボールも体操もいっしょくたにしてそれぞれの国のメダルの数を争ったりするけど、あれの原形かもしらん。
TVの前で「がんばれ日本」などと騒いでいる人たちはきっと小学生の時に「赤勝て」「白勝て」と興奮していたに違いないね。
これだけ運動会にシニカルになれる私がどうして阪神タイガースの勝敗に一喜一憂しているのであろう。これが自分でもわからん。まったくねえ。
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